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ピカソのフルネームはなぜ長い?
ツルハシではなかった―解答編

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ピカソの本名が長いと聞いて調べ始めた私たちは、ピカソは洗礼の記録と出生証明書記録の2つがあって、それぞれの名前が違っている事実に突き当たりました。
どちらの記録も、名前の始まりの部分は共通しています。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ
ここには、ピカソの父親や祖父や代父の名前が入っていました。
そこから先の部分、キリスト教の三位一体名には諸説があります。
どうやらピカソの三位一体名には、「シプリアーノ」(Cipriano)となっている資料と、「クリスピニャーノ」(Crispiniano)となっている資料があるらしいのです。
はたして正しいのはいったいどちらなのでしょうか?

正解はクリスピニャーノ

ボッシェ《クリスピヌスとクリスピニアスの殉教》
1494年

ピカソの洗礼名は次のようになっていました。

クリスピン・シプリアーノ(もしくはクリスピニャーノ)・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード

ここに出てくる最初のクリスピンは、ピカソの誕生日10月25日に殉教した聖人クリスピヌスの愛称です。
クリスピヌスは3世紀のローマ人のキリスト教徒ですが、ローマ皇帝の迫害を受けて属州であったガリア(現在のフランス)に移り、パリ北東部のソワソンで布教を続けました。
このクリスピヌス(Crispinus)ですが、実は双子で、クリスピニアヌス(Crispinianus)という弟がいました。
2人とも熱心なキリスト教徒で、兄弟でガリアに移住して靴職人として働きながら布教していたと言われています。貧乏人には無料で靴を配っていたという逸話も残っています。
そのため2人が殉教した10月25日は聖クリスピンの祝日として、キリスト教の記念日になっています。
ピカソは産まれた日が聖クリスピンの祝日であったために、三位一体名としてクリスピヌスとクリスピニアヌスの2人の聖人の名前をもらったのだと推測できます。
クリスピヌスの愛称がクリスピン、クリスピニアヌスの愛称がクリスピニャーノなので、正解は次のようになります。

クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード

シプリアーノ説にも一理あり

「ピカソの似顔絵」
(AI「Stable Diffusion」で生成)

では、なぜピカソの出生証明書は「クリスピニャーノ」ではなく「シプリアーノ」になっているのでしょうか。
まず考えられるのは書き間違いです。スペインではシプリアーノという名前がポピュラーなので、出生証明書を出すときにスペルミスをしてしまったのかもしれません。
あるいは意図的な変更であったとも考えられます。クリスピン・クリスピニャーノが、シプリアーノだけになっているのは、洗礼名にあるラテン語の覚えにくい聖人名ではなく、スペイン語で言いやすい名前として出生証明書に記載したのだと推測することもできます。
出生証明書は役所に登録された正式名なので、実はシプリアーノのほうが正しいのだと言うこともできるでしょう。

このような間違いはどこでもよく起きます。
たとえば、2022年現在、グーグルでピカソの本名を検索すると、三位一体名の部分が「クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンディシマ・トリニダード」となって出てきます。
どこがおかしいかわかるでしょうか。
「クリスピアーノ」というのは、「クリスピニャーノ」の間違いです。
また、「サンディシマ」というのも誤りで、正しいのは「サンティシマ」(Santísima)です。おそらくカタカナにする過程で誰かが書き間違えたものが、コピペを繰り返されてそのままネットの中で定着してしまったのでしょう。


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パブロ・ピカソと短縮される理由

「ピカソの似顔絵」(AI「Stable Diffusion」で生成)

三位一体名を洗礼名のとおりに「クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード」、もしくは出生証明書のように「シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード」と解釈したところで、続く最後の部分を見てみましょう。

出生証明書では簡単に「ルイス・イ・ピカソ」となっていますが、洗礼名では「マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ」となっています。

この「マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ」というのは、ピカソの代母(ゴッドマザー)の名前です。代父の名前は「フアン・ネポムセーノ」とファーストネームだけなのですが、代母のほうはフルネームで入っているのが面白いですね。

その後に続く「ルイス・イ・ピカソ」は、いわゆる姓の部分です。日本で言えば「山田太郎」の「山田」にあたります。
いま日本では夫婦別姓を認めるかどうかで論争が起きていますが、スペインではそのような論争は起きません。
なぜなら、スペインでは結婚しても姓は変わらず、夫婦別姓が当たり前だからです。
夫婦どころか、親子も別姓です。
というのも、スペインの姓は、父方の姓と母方の姓の両方を合わせて自分の姓とするのが一般的だからです。
つまり、ピカソの場合は最初に「パブロ」という名前があって、最後に、父方の姓である「ルイス」と、英語で「and」にあたる「y」(イ)を挟んで、母方の姓である「ピカソ」が続きます。
ですから、スペインの一般的な名前でいえば、ピカソは、パブロ・ルイス・イ・ピカソとなります。「イ」は省略されることが多いので、パブロ・ルイス・ピカソという表記もよく見られます。
日本でいえば、演歌歌手・藤圭子の娘である宇多田ヒカルが、ヒカル・ウタダ・フジと名乗るような感じです(藤圭子は芸名ですが)。
しかし、両親の姓を名乗るのはスペインだけの慣習なので、フランスで暮らすピカソはそのうちに、ただパブロ・ピカソと名乗るようになりました。父方の姓であるルイスではなく、母方の姓のピカソを名乗ったのは、語呂が良いという理由だったようです。
ちなみに、世界の国々では結婚後に同性か別姓かを選べることが多く、夫婦同姓を強制される国はなんと日本だけだそうです。

ピカソの本名にまつわるデマ

ピカソの父ホセ・ルイス・イ・ブラスコの写真

というわけでピカソの本名は次のとおりです。

役所の記録(出生証明書)
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ

教会の記録(洗礼名)
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ

このピカソの名前について、インターネットで調べると次のような意味だと出てくることがあります。
「小さな使徒よ お前は神が与えた人間である 神の恵みである 聖母マリアの救いである 渦巻く三位一体 それはキリスト教徒の戦いである ツルハシ便利」
これは、ツルハシが英語でピックアクス(pickaxe)であり、ピカソの発音に似ているなど、いかにもそれっぽく書かれてはいるもののデタラメです。スペイン語のツルハシはピケタ(piqueta)で、ピカソ姓との関連は証明されていません。
ただし、ピケタとピカソは音も似ているので、語源は同じだったかもしれません。ツルハシを使用する石工からピカソ姓が生まれた(ピカソの先祖が石工であった)という可能性までは否定できません。
いずれにせよ「ツルハシ便利」の意味はないのですが、ネット上でコピペが繰り返されているので、いつまでたっても消えません。このデマの発祥がどこだかはわかりませんが、おそらく最初に誰かがジョークのつもりで書いたものを、信じる人が多くて広まってしまったのでしょう。
考えた人は最後の「ツルハシ便利」でジョークだとわかるだろうと思ったのでしょうが、外国語アレルギーがあると「そういうものか」と鵜呑みにしてしまうのかもしれません。

前回も書いたように、パブロは聖人パウロ、ディエゴは父方の祖父の名前、ホセは父親の名前、フランシスコ・デ・パウラは母方の祖父の名前、フアン・ネポムセーノは代父の名前、そして三位一体名と代母の名前が続き、父の姓と母の姓が最後につきます。

スペイン人の名前が長くなる理由

スペインの制度について、もう少し詳しく説明しましょう。
たとえばピカソの父親は正式名称を「ホセ・ルイス・イ・ブラスコ」と言いました。「ルイス・イ・ブラスコ」が姓です。
つまりピカソは、父方の祖父の姓が「ルイス」、祖母の姓が「ブラスコ」でした。ちなみに、父方の姓を第一姓、母方の姓を第二姓と呼びます。
そしてピカソの母の名前は「マリア・ピカソ・イ・ロペス」でした。ピカソの母方の祖父の姓が「ピカソ」、祖母の姓が「ロペス」だったことがわかります。
ここで疑問がわきます。
ピカソには「ルイス」、「ブラスコ」、「ピカソ」、「ロペス」の姓を持つ4人の祖父母がいますが、ピカソの名前に「ルイス」と「ピカソ」しか入っていないのはなぜでしょう。
考えてみればわかるのですが、スペイン方式で子や孫にすべての姓を伝えていくと、名前が延々と長くなってしまいます。
そこで、子供は父親の姓から一つ、母親の姓から一つを選んで、自分の名前に受け継ぎます。通常はそれぞれの第一姓を受け継ぐので、「ホセ・ルイス・イ・ブラスコ」と「マリア・ピカソ・イ・ロペス」の間に生まれたピカソは、「パブロ・ルイス・イ・ピカソ」となったのです。
ピカソの代母の名前である「マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ」を見ると、クリスチャンネームがマリア・デ・ロス・レメディオスで、父親の姓がアラルコン、母親の姓がエレーラであったことがわかります。

このような制度なので、スペインでは夫婦はもちろん、親子でも姓が異なるのです。
たとえば、ピカソとフランソワーズ・ジローとの間に産まれた娘パロマ・ピカソは、出生時の正式名称がアンヌ・パロマ・ルイス=ピカソ・イ・ジローでした。
ファーストネームはアンヌなのですが、セカンドネームのパロマ(スペイン語で鳩を意味する)のほうが定着しています。姓は、父親からルイス=ピカソ、母親からジローを継承しています。

現在、日本では3つのピカソ展が開催されています。
箱根のポーラ美術館で「開館20周年記念展 ピカソ 青の時代を超えて」が2023年1月15日まで、
上野の国立西洋美術館で「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が2023年1月22日まで、
そして南青山のヨックモックミュージアムで「ピカソのセラミック-モダンに触れる」展が2023年9月24日までの予定です。
いずれも充実した展示が楽しめるので年末年始のお出かけにいかがでしょうか。

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