20世紀の画家の人気が上がっている理由
~レンピッカとキスリング
2019年に引き続き、2020年も美術業界は好景気に沸いています。
今月2月5日はロンドンのクリスティーズで、ポーランドの女性画家タマラ・ド・レンピッカの作品が約2120万ドルで競り落とされました。
レンピッカは日本ではまだそれほど知名度が高くありませんが、この価格は、例えば黒人アーティストの最高落札価格である、ケリー・ジェームズ・マーシャル≪Past Times≫2110万ドルを上回るものです。
あるいは、2019年10月に落札された、日本人作家最高記録の奈良美智≪ナイフ・ビハインド・バック≫の約2490万ドルと比較したほうがわかりやすいかもしれません。
レンピッカに限らず、ダリやバスキアなど、20世紀に亡くなった画家の作品が、近年は高騰しています。その理由はどこにあるのでしょうか。
歴史に翻弄されたポーランドの画家たち
タマラ・ド・レンピッカは、1898年ワルシャワ生まれのポーランド人女性画家です。
といっても、当時のワルシャワはロシア帝国の一部でしたから、彼女はロシア人として育ちました。ポーランドは1795年にロシアやオーストリアに分割されて消滅し、1918年に独立を回復するまで、国家として存在していなかったからです。
同様の悲劇を味わったポーランド人画家として、レンピッカよりも7歳年上でエコール・ド・パリの代表的な画家であるモイズ・キスリングがあげられます。キスリングは現ポーランドのクラクフの出身ですが、当時のクラクフはオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、彼はオーストリア人として育ちました。
ポーランド系ロシア人として育ったレンピッカと、ユダヤ系オーストリア人として育ったキスリングの人生が交わった場所は、当時、芸術の最先端だったパリです。
キスリングは1910年に19歳でパリに来て、モンマルトルで画家としての活動を始めていました。
その頃、12歳のレンピッカはスイスにいました。裕福な家庭に生まれたレンピッカは、スイスの全寮制学校に留学していたからです。
ところが、1912年に両親が離婚して、レンピッカはロシアの首都サンクトペテルブルクの叔母に引き取られます。そして1916年、18歳のときにポーランド系弁護士のタデウシュと結婚します。当時のポーランド系上流階級の娘としては、至極順当な人生でした。
しかし、激動の20世紀はレンピッカを振り回します。結婚の翌1917年にロシア革命が起きて、富裕層のレンピッカ夫妻は革命軍の目の敵にされます。逮捕された夫を、コネを使って何とか釈放してもらったレンピッカは、ロシアから逃れて各国を渡り歩き、1919年にフランスのパリに落ち着きます。
その頃、パリのキスリングは長い下積みを終えて、28歳で初めての個展を開催していました。同じポーランド系とはいえ、出自の異なる2人の交流はまだありませんでした。
フランスに移住した1919年、レンピッカには娘が生まれます。言葉のろくに通じないパリで、夫の仕事もないなかで、レンピッカは生活費を稼ぐ必要に迫られます。ここで彼女が選んだのが、子どもの頃に得意だった絵でした。女性の仕事がなかなか見つからない当時、レンピッカは画家として絵を売ることで生計をたてようとしたのです。
外国人や女性に門戸を開放していたアカデミー・グラン・ショミエールに入学したレンピッカは、モーリス・ドニやアンドレ・ロートに師事して、6年後の1925年にはイタリアのミラノで最初の個展が開催されるほどの腕前になりました。
レンピッカとキスリングは出会ったのか?
レンピッカは、当時の流行の最先端であるアール・デコの様式を取り入れて、モダンな絵を描きました。
それは曖昧で雑然とした印象派やポスト印象派の絵を古臭く見せるほどに、クリアでエレガントな描線を持っていました。ピカソですら彼女の絵を認めて「統合された破壊の斬新さ」と評したほどです。
今回、クリスティーズにて2120万ドルで落札された≪マージョリー・フェリーの肖像≫は、彼女の人気が絶頂だった1932年に描かれたものです。
1929年にはアメリカのカーネギー美術館で個展が開催され、レンピッカにはスペイン王やギリシア王妃から肖像画の注文が舞い込みました。当時の彼女は、ヨーロッパで最も人気のある肖像画家の一人でした。
その頃、キスリングも「モンパルナスの王」と呼ばれるほどの絶頂期を迎えていました。同じ年に描かれた≪スウェーデンの少女イングリッド≫を見ると、レンピッカとは画風こそ異なれど、1920~30年代という戦間期のモダンな空気感が伝わってきます。
ここで驚くのは、女性のレンピッカが、男性のキスリングよりもむしろ力強く骨太な表現をしていることです。
キスリングがたおやかで優美な絵を好んで描いたということもありますが、それよりもレンピッカが当時の女性としては珍しく、自らの人生を自らで選び取る強さを持っていて、それが絵にも表現されていると見るべきでしょう。
女性の強さを表現するレンピッカとマドンナ
実際、レンピッカの人生は格闘の連続でした。
ポーランドの上流階級の間で人気だったイケメン弁護士の夫を勝ち取ったのもレンピッカの猛烈なアタックによるものでしたし、その後のロシア革命で逮捕された夫の救出、亡命先で生活に困窮してからの画家への転身と成功、そして華々しいパリの社交界へのデビューと、セレブたちとの性的要素も含む交流は、並大抵の精神の強さではできないことです。
両性愛者として知られたレンピッカは、女性とも親しく交際しました。仕事と社交に忙しく家庭を顧みないレンピッカに疲れて、1927年に夫は家を出ていきました。離婚したレンピッカは悪びれることなく、娘を全寮制の学校に預けて相変わらずの生活を続けました。
1928年、レンピッカは貴族のクフナー男爵から、愛人の肖像画を描いてほしいとの依頼を受けます。肖像画を描き上げたレンピッカは、何とそのままクフナー男爵の新たな愛人となりました。こうして男爵はレンピッカのパトロンとなり、1933年に妻が亡くなると、翌1934年にはレンピッカと再婚します。レンピッカは、男爵夫人という貴族の地位まで手に入れたのです。
第二次世界大戦がはじまると、レンピッカと男爵はアメリカに疎開しました。フランス軍兵士として従軍したキスリングも、フランスの降伏後はアメリカに亡命します。この時期、ダリやシャガールやモンドリアンなど、パリに住んでいた画家の多くが戦禍を避けてアメリカに渡りました。
戦後もアメリカで暮らし続けたレンピッカですが、肖像画家としての人気のピークは過ぎていて、1960年代には画壇での消息が途絶えます。しかし、1970年代になると流行が一巡して、レンピッカのアール・デコ絵画が目新しいものとして注目されます。
1972年にパリでレンピッカの回顧展が開かれると、マスコミでも話題となり、おおぜいの客が集まり、再評価されるようになりました。
レンピッカが亡くなったのは1980年のことです。その頃には彼女の名誉は十分に回復され、パリの狂騒の時代(レ・ザネ・フォル)を生きた力強い女性画家として、フェミニストからも支持されるようになったのです。
その評価は現在でも変わることなく、むしろ高まり続けています。
1995年、マージョリー・フェリーの子孫によって≪マージョリー・フェリーの肖像≫がオークションに出品されたとき、その落札価格は55万ドルでした。単純計算で6000万円という価格は、一枚の絵としては十分なものでしたが、驚くべきはその後です。
14年後の2009年に、この絵が再びオークションにかけられたとき、その落札価格は490万ドルに値上がりしていました。元の価格の9倍です。
さらに、11年後の今年2020年にオークションにかけられたときには、その落札価格は2120万ドルになりました。25年前と比べて、なんと40倍になったのです。
レンピッカの中で、この作品だけが特別に評価が高いわけではありません。2009年に≪マージョリー・フェリーの肖像≫が490万ドルで落札された翌日には、別の作品≪マダムMの肖像≫が610万ドルで落札されて、すぐにレンピッカの最高価格記録を塗り替えました。
レンピッカの作品は、男女同権が浸透する現代の風潮にもよく合っています。自らの人生を自らで選び取る強い女性のイメージを発信し続けるポップスターのマドンナもレンピッカのファンを公言し、そのミュージックビデオの中でレンピッカの作品をフィーチャーしています。
例えば、1986年の楽曲『Open Your Heart』のミュージックビデオは、レンピッカの絵を模して作られた大きな舞台セットから始まります。
また、1990年の楽曲『ヴォーグ』のミュージックビデオでは、1920年代のアール・デコ調のセットの中にレンピッカの絵を何枚も配置して、その中でマドンナとダンサー達が踊りました。
没後30年で画家の再評価が始まる
レンピッカに代表されるように、20世紀に亡くなった画家の作品の価格が軒並み上がってきているのは、時間の経過によるものです。
画家本人が存命の間は、本人のマーケティング力やメディアの流行に左右されるため、その人気は上がったり下がったりで一定しません。
しかし、画家が亡くなってから30~40年も経つと、当時の流行を知る人も少なくなり、作品そのものの力があらためて評価の対象になります。
絵というものには流行があって、その時代の価値観で見られるときと、30~40年後の別の時代の価値観で見られるときとでは、評価が大きく異なってきます。
2020年というのは、レンピッカが亡くなってから40年後であり、その作品が歴史的な評価を受けるのに十分な年月が経っています。
ちなみに2020年は、キース・ヘリングが亡くなってから30年、ダリが亡くなってから31年、バスキアが亡くなってから32年、ウォーホルが亡くなってから33年目です。いずれも今後の再評価と価格の上昇が期待できるでしょう。
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