マルク・シャガールとベラ・ローゼンフェルト
~ 代表作《誕生日》に隠された秘密
マルク・シャガールを理解するための補助線は2本あります。
一つはユダヤ人としてのアイデンティティー、もう一つは愛妻ベラです。
シャガールがベラに出会ったのは21歳のときで、そのときベラはわずか13歳でした。
しかし恋に落ちたシャガールは、その後もベラと文通で交際を続け、彼女が18歳になるのを待って結婚するのです。
シャガールはベラをモデルに何枚もの絵を描きました。代表作《誕生日》もその一つです。
前回はこちら。
シャガールの代表作《誕生日》はベラとの愛の結晶
1909年、ロシア帝国の首都サンクト・ペテルブルクで画学校に通っていたシャガールは、故郷ヴィツェプスクへ帰省の折に、同じユダヤ人であるベラ・ローゼンフェルトと出会って恋に落ちます。
裕福な中産階級であったベラの両親は、貧乏な画家志望の青年であったシャガールが娘に近づくのを歓迎しませんでした。
しかし、その後シャガールはパリで画家として自立して、ベラの両親に交際を認めさせます。
1914年、26歳のシャガールはドイツ人画商ヴァルデンに認められて、ベルリンで初の個展を開催しました。
新進画家が個展を開くのがとても難しかった時代に一定の成功を収めたシャガールは、18歳になったベラと結婚するために故郷のヴィツェプスクに一時帰郷します。
何年も別れていたベラとの再会は幸せに満ちたものでした。
1915年のシャガールの誕生日、ベラは花束やお菓子などさまざまなプレゼントを持ってアトリエにやって来ます。
シャガールはとても感激して、そのままベラをモデルに1枚の絵を描きました。それが代表作の《誕生日》です。
この作品は、プレゼントを持ってきたベラに、喜びのあまり飛び上がってキスをするシャガール自身の姿を描いています。
シャガールの浮遊するような姿が印象的ですが、これは嬉しさを表現するユダヤの慣用句に「空中に舞い上がる」という言葉があるからでしょう。
この絵には、1915年に描かれたオリジナルと、1923年にシャガールが模写したバージョンの2種類があります。
なぜシャガールは、7年も経ってから改めて作品をコピーしたのでしょうか。
そこには、歴史に翻弄されたシャガールの悲劇が隠されています。
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第一次世界大戦とロシア革命がシャガールの人生に及ぼした影響
7月7日のシャガールの誕生日から約2週間後の1915年7月25日、シャガールとベラは結婚式を挙げます。
翌年には娘イダが誕生し、ヴィツェプスクで二人は幸福な新婚生活を送ります。
1918年の作品《街の上で》にはヴィツェプスクの街の上に舞い上がる二人が描かれています。
当初、シャガールはヴィツェプスクに長期間とどまるつもりはなく、結婚式が終わればすぐにパリに戻るつもりでいました。
そのためにパリの住居もアトリエも借りたままにしておきました。
しかし、ヴィツェプスクに滞在中、折悪しく第一次世界大戦が勃発しました。フランスとロシアは同盟国でしたが、敵国ドイツをまたいでの移動は難しく、シャガールはそのままロシアに留まりました。
この戦争中にロシアでは革命が起きて帝政が打倒され、ソビエト連邦社会主義共和国が誕生しました。
シャガールは、1917年のロシア革命を歓迎しました。革命によって、人々の平等がうたわれるようになり、建前上、ユダヤ人もロシア人と同じ権利を持てるようになったからです。
また、パリの人気画家であったシャガールには、芸術人民委員としてヴィツェプスクに芸術学校を開くよう政府からの任命が下りました。画家としての活動時間は減りますが、地位が保証されるのは悪くありません。
意気揚々と準備に取り掛かったシャガールでしたが、良かったのはそこまでです。
シャガールが教授として招聘したマレーヴィチと意見が対立して、シャガールのほうが学校を追い出されてしまったのです。
また、自由を愛するシャガールの作風は革命政府との折り合いが悪く、やがて芸術人民委員の地位も逐われ、ついに1922年、シャガールは妻子を伴ってパリに戻ることを決意しました。
当初は一時的な帰郷のつもりで始まったシャガールのロシア生活は、戦争と革命によって足かけ8年にまで延長されていました。そのことが次の悲劇を呼びました。
シャガール《誕生日》に2つのバージョンがある理由
1923年(原画は1915年)
シャガールはパリに戻る途中でベルリンに寄り、初個展を開催してくれた画商ヴァルデンに預けてあった絵を回収しようとしたのですが、それらはすべて売却されていました。
しかも敗戦国となったドイツではお金の価値が暴落するハイパーインフレが起きていたため、シャガールの絵の売上代金の価値が暴落して、煙草一箱程度のものになっていました。
シャガールは激怒しましたが、売買後に金銭価値が変わっただけで、取引は正式なルールと相場でおこなわれたものです。長い訴訟の末に取り戻せたのは、ヴァルデンの妻が持っていた油絵3点とグワッシュ10点だけでした。
さらにパリのアトリエに戻ってみると、そこにはすでに見知らぬ人が住んでいました。オーナーは、シャガールが亡くなったものと考えて、他の人に貸してしまったのです。アトリエに残してあった絵はすべて処分されていました。
シャガールは過去に描いた絵をほとんど失ったうえ、あてにしていたお金ももらえず、破産状態になってしまったのです。
この経験は、シャガールをひどく打ちのめしました。
しばらくの間、シャガールは失った絵を取り戻すために、過去の作品を所有主から借りて模写することに集中しました。
シャガールの代表的な作品の多くに複数のバージョンがあるのはそのためです。その後も彼は、作品を1点仕上げると自分のために模写を残すようになります。
これが、前述した《誕生日》のコピーが生まれた経緯です。ここで掲載した《誕生日》は、戦後の1923年に新たに描かれたバージョンです。1915年のバージョンとほとんど同一ですが、細かいタッチなどに違いが見られます。
価値が高いのはオリジナルのほうですが、模写版も、1990年のニューヨークでのサザビーズ・オークションにて手数料込み1485万ドル(約23億円)で落札されたほどに人気があります。
ちなみに、落札したのは日本人でした。同日にはルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレットにて』が約120億円で落札されていますからそれほど目立ちませんでしたが、シャガールの《誕生日》も、当時の絵画落札の記録としては30位くらいとなりました。日本のバブル景気を象徴するオークションの一つでした。
次回に続く。
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