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どれ程知ってる? 国際結婚の日本人画家
~藤田嗣治だけじゃない、国吉康雄もオノ・ヨーコも

前回は日本人と結婚した外国人画家を紹介しました。逆に、藤田嗣治をはじめ、日本人画家が外国人と結婚した事例も少なからずあります。今回は、国際結婚をした日本人画家について調べてみました。

 

ラグーザ玉「春」1912年

明治時代、西洋に追いつけ追い越せと焦った日本政府は、日本の若者に西洋文明を教育するために数多くの「お雇い外国人」を招聘しました。そのうち、芸術関係の専門家は、日本発の美術教育機関である「工部美術学校」の教員として雇用されました。

 

画学教師フォンタネージ、彫刻教師ラグーザ、そして図学教師カッペレッティです。いずれもルネッサンス美術の中心地イタリアから呼ばれた芸術家です。このうち、彫刻教師ラグーザは、絵画を学んでいた日本人学生の清原玉(たま:1861-1939)に、作品のモデルを依頼します。これがきっかけとなり、1880年に二人は結婚し、清原玉はラグーザ玉となりました。

 

しかし、1882年、工部美術学校の彫刻科が廃止となり、ラグーザは帰国を余儀なくされます。玉も夫と一緒に渡欧し、イタリアのパレルモ大学美術専攻科に入学して絵の修業をしました。1884年、ラグーザがパレルモに工芸学校を設立してからは、エレオノーラと名乗って絵画科の教師も務め、その絵も評価されるようになりました。

 

国際結婚をした日本人芸術家として世界的に有名なのがオノ・ヨーコ(1933-)です。富豪の小野家に生まれた洋子は、幼少時から銀行員の父の転勤に伴って海外生活を経験し、アメリカの大学に進学します。ヨーコの最初の結婚は、1956年、日本人作曲家の一柳慧(いちやなぎとし)とのものでした。現代音楽家の夫とともに、前衛芸術活動をするようになったヨーコですが、その活動はなかなか認められませんでした。やがて1963年、ヨーコは映像作家のアンソニー・コックスと恋に落ちて、前夫と別れて再婚します。二人の間には娘のキョーコが生まれました。1964年の作品「カット・ピース」は、舞台に上がったヨーコの着ている服を、観客にハサミで自由に切らせるもので、前衛芸術界でたいへんな話題になりました。そして1966年、ヨーコはビートルズのジョン・レノンと運命的な出会いをして、恋愛関係になります。ジョンもヨーコもそれぞれ妻子があったため、二人の関係は世間からは非難を受けました。しかし、二人はお互いの間の愛を貫きます。1969年、ヨーコは二度目の離婚をしてジョン・レノンと結婚しました。二人の間にはショーン・レノン(小野太郎)が生まれています。1980年、ジョン・レノンは射殺されますが、オノ・ヨーコは今もなお現役のアーティストとして活動を続けています。

 

次は、翠波画廊取扱い作家の国吉康雄(1889-1953)です。
国吉康雄は、ジャン・コクトーと同じ年に生まれた、エコール・ド・パリ世代の画家の一人です。美術や学問を志した日本人が海外に留学するのは当時の流行ですが、国吉の場合はフランスではなくアメリカに渡りました。若干17歳の時です。国吉がアメリカを選んだのは、もともと画家志望ではなく、アメリカ移民が流行していたからとも言われています。いずれにせよ、肉体労働者として生活費を稼ぎつつ、国吉は美術学校に入学し、子どもの頃から好きだった絵を描くようになります。
1920年代になると、日本的な情緒を持つ国吉の油絵が、アメリカの美術界で注目されるようになりました。1922年には、アメリカ国籍を持たない日本人でありながら、アメリカのモダニズム画家の団体サロンズ・オブ・アメリカの会長に選ばれ、1936年までその責を負います。国吉は、反日運動が盛んだった当時のアメリカで、筆一本の力で受け入れられた稀有な日本人画家でした。1929年には、ニューヨーク近代美術館で開催された「19人の現代アメリカ画家展」の1人に選ばれています。しかし、国吉は日本ではそれほど高く評価されませんでした。村社会の気風が強い日本美術界は、海外で成功した画家には冷淡だったのです。
1941年に日米が開戦すると、国吉はアメリカ側に立って、日本政府を批判するようになります。アメリカ政府に頼まれてプロパガンダの戦争ポスターを描くことまでしました。国吉は生涯に二度の結婚をしましたが、どちらも相手はアメリカ人女性でした。そして生涯を通じて、日本に帰国することはほとんどありませんでした。

 

最後は、お馴染みの藤田嗣治(1886-1968)です。
藤田は東京で陸軍軍医だった父のもとに生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科で絵を学びます。卒業後の1912年、女学校の美術教師であった登美子と最初の結婚をしますが、翌年、単身パリに絵の修業に行くことになり、登美子との結婚生活はわずか1年で消滅しました。パリに着いた藤田はやがてフランス人モデルのフェルナンドと良い仲になり、1917年に2度目の結婚をします。フェルナンドは藤田の絵をパリで売り込むために奔走しました。しかし、この結婚もやがて終わりを迎えます。
3人目の妻は、やはりフランス人のリュシーでした。「お雪」と藤田が呼んで愛したこの美女は、しかし詩人のロベール・デスノスと不倫関係になり、結婚生活は破綻します。そこで藤田が新しく見つけた愛人は、フランス人ダンサーのマドレーヌです。藤田はマドレーヌを4人目の妻として、日本に帰国しますが、マドレーヌは1936年、薬物中毒から27歳の若さで世を去ります。
最後に藤田が愛し、終生連れ添った5人目の妻が、日本人の君代でした。1936年に結婚してから、1968年に亡くなるまで、彼女が藤田の最後のパートナーでした。5度の結婚をして、そのうちの3人がフランス人だった藤田は、真に国際的な画家でした。
2018年は、藤田嗣治の没後50年に当たり、過去最大の藤田嗣治の回顧展「没後50年展」が10月8日まで東京都美術館で開かれています。この機会に、ぜひ藤田の絵画に触れてみてください。

 

 


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