フランスで客死した日本人画家
~パリに憧れた佐伯祐三の太くて短い人生
2023年、佐伯祐三の回顧展「自画像としての風景」が東京と大阪で開催されます。
1月21日~4月2日まで東京ステーションギャラリー、4月15日〜6月25日まで大阪中之島美術館で行われています。
佐伯祐三とは、1928年にパリにて30歳で夭逝した洋画家です。パリに滞在した期間は合計で3年2か月でした。
当時はエコール・ド・パリ全盛期で、多くの画家がパリに渡っていました。
先日、翠波画廊で作品展を開催したみうらあんこ氏をはじめ、パリに住んだ日本人画家は少なくありませんが、特に有名なのは藤田嗣治、岡本太郎、佐伯祐三の3人でしょう。
佐伯祐三が描いたパリの街並みは、日本のユトリロとも言うべき詩情に満ちています。
なぜ画家はパリを目指すのか
佐伯祐三が東京美術学校(後の東京藝大)を卒業したのは1923年、25歳のときです。そこから30歳で亡くなるまで画家人生はわずか6年しかありませんでした。
それなのに今でも人気が高いのは、その人生がドラマチックだからです。
1898年に大阪の寺の次男として生まれた佐伯祐三は、医師にしたいという父の思いを振り切り、画家になるために上京して東京美術学校に入学します。在学中に脚の不自由な画学生の池田米子と知り合い22歳で学生結婚しますが、その直後に父と弟を病で失います。
夫婦仲は良好で、24歳のときに長女の彌智子が誕生します。翌年、東京美術学校を卒業した佐伯祐三は早々とパリを目指して渡仏しました。
当時の日本は美術の面ではまだ後進国だったので、東京美術学校という日本の権威にあまり評価されなかった画家が、箔をつけるために修行としてパリに渡ることは珍しくありませんでした。
かつて藤田嗣治も東京美術学校卒業の3年後に妻を日本に残してパリに向かいました。1913年のことです。佐伯祐三が渡航したのは、藤田嗣治の10年後の1923年でした。妻子を連れての移住という点が藤田とは異なります。
単身フランスに渡った藤田嗣治は現地女性と懇意になってフランスの画壇に食い込んでいきましたが、妻子連れの佐伯祐三にはその道は歩めませんでした。
逆に佐伯祐三を待ち受けていたのは、フランス美術界の厳しい洗礼でした。
余談ですが、岡本太郎の渡航は佐伯祐三の6年後の1929年です。岡本太郎の場合は両親に連れられての渡仏で、東京美術学校を中退してパリの学校に通っています。
藤田も佐伯も岡本も、両親が裕福であったためにパリ行きが可能であったことには注意を払っておきたいと思います。
フランスの巨匠に叱られる
大阪中之島美術館
パリに着いた佐伯祐三は、パリに住んでいた先輩洋画家の里見勝蔵を訪ねます。そして里見に連れられて、憧れていたゴッホの終焉の地、オーヴェル=シュル=オワーズへの旅行に出かけます。
その地で佐伯祐三は、フォーヴィスムの画家ヴラマンクのアトリエを表敬訪問しました。
しかし佐伯の持参した絵を見たヴラマンクは「アカデミックだ!」と批判します。自信を持っていた絵に対して、保守的でつまらないと切って捨てられた佐伯は、少なからずショックを受けました。
それまでの佐伯祐三の作風はルノワールやセザンヌに影響を受けた端正なものでしたが、以降はヴラマンクやルオーを参考に、荒々しくエモーショナルな作品に挑戦するようになりました。
ヴラマンクとの出会いの後に描いた《立てる自画像》は、顔をパレットナイフで荒く削りとったもので、当時の佐伯祐三の決意を表しているかのようです。
ちなみにこの絵は、ミュージシャンズ・ミュージシャンとして知られるロックバンドeastern youthの6枚目のアルバム『旅路ニ季節ガ燃エ落チル』のアルバムジャケットにも使われています。
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巴里の街を描く佐伯祐三
(翠波画廊にて過去に販売)
1924年、佐伯祐三はパリのモンパルナスに住居兼アトリエを借ります。その建物の1階にあった靴屋を描いた《コルドヌリ(靴屋)》が、翌1925年のサロン・ドートンヌに入選して買い手がつきました。
当時、すでに人気画家の地位を確立していた藤田嗣治がサロン・ドートンヌの審査員であったため、同展はパリの日本人画家の登竜門となっていました。しかし佐伯は藤田にあまり接近せず、あえて距離を置いた節があります。日本人同士のコネを使うのも、人気画家に媚びを売るのも気に食わなかったのでしょう。
やがてパリの街路を描くユトリロの絵に感銘を受けた佐伯祐三は、自らも外に出てパリの街並みを描くようになりました。
佐伯祐三のパリの絵の特徴は、画面に数多く書き込まれた文字です。たしかに現実の街を歩くとチラシや看板の文字が多数目につきます。佐伯によって描かれた文字は、その意味をすぐに理解できない日本人にとって異国情緒を感じさせるものとなっています。
親子で結核にさいなまれる悲劇
大阪中之島美術館
佐伯祐三を苦しめたのは生来の身体の弱さでした。
健康を案じる兄の勧めで1926年に日本に一時帰国した佐伯祐三ですが、パリへの郷愁を断ちがたく、翌1927年に再び妻子を連れて渡仏します。
今回もモンパルナスに新築のアトリエを借りて、ヴァイオリンを習いながら絵を描く日々が始まりました。
一見、順風満帆に見えた生活ですが、このときから佐伯祐三の身体は、弟の命を奪った結核にむしばまれていました。 1928年、病で寝込むことの多くなった佐伯祐三は、精神的に追い詰められて失踪し、自殺を試みます。幸い一命はとりとめたものの、またすぐに家から脱出しようとするので、妻の同意のもと精神病院への入院とあいなりました。当時は一人娘の彌智子も重篤な結核で寝込んでいたため、夫にまで手が回らなかったのです。
しかし佐伯祐三の病はよくならず、8月16日に結核から来る身体衰弱で死去します。その2週間後に娘の彌智子も後を追うように亡くなりました。
遺作とされている《黄色いレストラン》の完成度は高く、今後の活躍が期待されるなかでの惜しまれる死でした。
翠波画廊では、佐伯祐三作品のご用意がございます。
作品はこちらよりご覧ください。
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