家族の絵は、残された者にどのような思い出をつくるのか
~映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』で考える
『黄金のアデーレ 名画の帰還』は実話を基にした映画です。
クリムトの熱心なパトロンの一人は、ウィーンのユダヤ系実業家であったフェルディナント・ブロッホ=バウアーでした。フェルディナントは、自分の妻であるアデーレの肖像画を2枚、クリムトに描かせました。そのうちの1枚が「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ」です。キャンバスの大部分が金箔で覆われた、豪勢な肖像画は、脂の乗りきった45歳のクリムトによる大作で、「黄金のアデーレ」という通称で知られるようになります。
1925年に亡くなったアデーレは、この絵を国立美術館に寄贈するよう遺言を残しました。しかし、夫のフェルディナントは妻の絵を手放すことを望まず、遺言を無視してそのまま持ち続けます。その気持ちはよくわかります。亡くなった妻の美貌をキャンバスにとどめる絵画があったとしたら、誰でも部屋に飾っておいて、思い出をよみがえらせる、よすがにしたいと思うでしょう。その後、1938年にナチスがオーストリアを併合したことで、ユダヤ系のフェルディナントはスイスへの亡命を余儀なくされました。突然の亡命劇であったため、「黄金のアデーレ」を含めた彼の資産は、ナチスに没収されてしまったのです。
第二次世界大戦後、「黄金のアデーレ」はフェルディナントの元に返却されることになりましたが、その手続きが終わる前に、彼は亡命先のスイスで亡くなります。 彼の遺言書には「アデーレの絵は姪のマリアに譲る」とありました。このマリアとは、アデーレの妹とフェルディナントの弟との間に生まれた子供です。アデーレ・バウアーの姉妹と、フェルディナント・ブロッホの兄弟は、兄と姉、弟と妹がそれぞれに結婚して、共にブロッホ=バウアーの複合性を名乗っていたのです。
戦争を避けて、夫のフリッツ・アルトマンとともにアメリカに移住していたマリアは、思いもかけず伯母の肖像画の相続人になりましたが、この絵はアメリカに住む彼女の元には届きませんでした。オーストリア政府は、フェルディナントの遺言よりも、アデーレの遺言のほうを重視し、国立美術館に絵を収蔵したのです。その気持ちもよくわかります。名画は公共財産でもありますから、ウィーンが生んだ大画家の代表作を、新興国であるアメリカに渡したいとは思わないでしょう。しかし、マリアは母のおもかげを残す伯母の肖像画をあきらめませんでした。こうして、オーストリア政府とマリアとの間に、長い法廷闘争が始まったのです。
映画の結末でもある裁判の結果は、ここでは記しません。気になる方はぜひ、2015年に日本でも公開された映画『黄金のアデーレ 名画の帰還』をご覧になってください。一つだけ言えるのは、2006年にこの絵が、当時の絵画史上最高価格である1億3500万ドル(約156億円)で売却されたという事実です。
肖像画は、モデルの家族にとっては、個人的な懐かしい思い出を呼び起こすものです。一方で、その絵がよく描けていればいるほど、モデルと個人的なつながりを持たない一般の観客にも、普遍的な感動を与えてくれます。美術史に残る絵画は、人類の宝物です。絵の所有者は、個人的にいつも眺めて暮らしたいとの気持ちもありますし、より多くの人に見てもらうことで社会貢献したいという気持ちもあります。価値のある絵を持っている方は、50年後、100年後に、その絵がどこでどのようになっていてほしいか、思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。 |
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