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印象派だけど印象派じゃない画家とは?
~伝統にとらわれない自由な画家カミーユ・ピサロ

翠波画廊代表の著書『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』では、印象派の画家として、
モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴーギャンなどを紹介しています。 この4人の共通点は、印象派展と呼ばれた画家たちのグループ展に参加していることです。 合計8回開催された印象派展に、モネとゴーギャンは5回、ルノワールは4回、セザンヌは2回参加しています。
しかし8回すべてに参加した画家や、7回参加した画家など、印象派の名に相応しい画家は他にもいます。
誰のことだかわかりますか?

 

印象派の長老画家って?

合計8回開かれた印象派展のすべてに参加した画家の名前はカミーユ・ピサロ。 1830年生まれのピサロは、印象派の画家たちの最年長で、8回目の印象派展では、息子のリュシアン・ピサロも一緒に出品したほどの高齢でした。 印象派の画家は、モネのように主に風景画を描く画家と、ルノワールのように人物画を得意とした画家とに分けられます。 ピサロは風景画の画家です。 他の画家よりも年長だったピサロですが、偉ぶることのない穏やかな性格で、他の画家と良い関係を築いていました。 ピサロは、気難しかったセザンヌに印象派の画法を教え、株式仲買人だったゴーギャンを仲間に迎え入れ、親子ほども年の離れた若いスーラやシニャックの点描画法を賞賛し、自分の絵に積極的に取り入れました。 1903年に73歳で亡くなるまで絵を描き続けたピサロは、まさしく印象派の長老の名にふさわしいと言えます。

ピサロ「ジャレの丘」1867

ピサロ「リンゴの収穫、エラニー」1888

 

最初の展覧会から印象派を牽引した男

印象派展に8回中7回参加した画家で有名なのは、エドガー・ドガと、その高校時代からの親友アンリ・ルアールです。 1834年生まれのドガは、ピサロよりも4歳年下ですが、モネよりも6歳年上で、印象派の兄貴的な存在です。 そもそも、第1回の印象派展を企画し、リーダーとして積極的に動いたのがドガです。 裕福な銀行家の長男として生まれたドガは、幼いころから絵画に興味を示し、画家を志します。芸術を愛したドガの両親は、息子の夢を応援して経済的に援助し、そのおかげでドガは40歳頃まで自由に絵を描き続けることができました。

 

ドガ「マルグリット・ドガの肖像」(翠波画廊取扱い作品)

1874年に事業家の父が亡くなると、隠されていた借金も見つかり、ドガは自立する必要に迫られます。 そこで企画したのが印象派展です。この展覧会で絵を売って生計をたてようとしたのです。ドガは満を持して10点もの作品を出品しましたが、1枚も売ることはできませんでした。 当時のフランスでは官展のサロン・ド・パリの力が強く、多くがサロン落選者で構成された印象派展には人が集まらなかったのです。 しかし、権威的なサロンを嫌っていたドガは、自分たちは独立派の画家であるとの矜持を強く持ち「同じ年のサロンに出品した画家は印象派展には出品できない」とのルールを掲げました。 ドガのこの主張は、当初は支持されたものの、やがて「やっぱりサロンにも出品して成功したい」と考える画家が出てきて、印象派グループの分裂を招きます。 モネやルノワールもサロンに出品することを決めて、途中から印象派展には参加しなくなります。

 

ドガ「自画像」1855

ちなみに、ドガは「印象派」という呼ばれ方も嫌い、最後まで自らを「印象派」とは認めませんでした。 印象派展自体も、最初の2回は印象派展ではなく、ただの美術展と呼ばれていました。 しかし、第1回展に出品されたモネの絵画「印象・日の出」が、批判の槍玉にあがったことから、蔑称として「印象派」との言葉が生まれたのです。 「印象派」とは差別的な呼び名でしたから、もちろんドガの気に入るわけがありません。 第3回展では、展覧会の呼称の一部として、しぶしぶ「印象派」を受け入れたドガでしたが、モネやルノワールが抜けた後の第5回展からは「印象派」の名前を外してしまいました。 グループの名称としてドガが好んだのは「独立派」(アンデパンダン)です。 実際、独自の画風を追求し、プライドも高く、他人に容赦のなかったドガには、「印象派」よりも「独立派」の名前のほうが似合っています。

 

ドガ「踊り子、ピンクとグリーン」1929

 

女流画家の先駆け

ドガとその親友の日曜画家アンリ・ルアール以外にも、印象派展に7回参加した画家がいます。女性画家のベルト・モリゾです。 1841年生まれのベルト・モリゾは、ルノワールと同い年です。 職業としての女性画家が認められない時代でしたが、それでも絵を好きだったモリゾは独身のまま絵を描き続け、ドガやマネといった若手画家の知己を得ます。 そうして、ドガに誘われて第1回の印象派展から連続で参加することになりました。

 

1874年、33歳になったモリゾは、マネの弟のウジェーヌと結婚します。 当時としては晩婚でしたが、絵を描くことに理解のある夫に出会えたことで、結婚後も画家としての活動を続けることができました。以後のモリゾは、一人娘のジュリーや夫のウジェーヌなど、自らの家庭を描くことが多くなりました。

 

ベルト・モリゾ「ブージヴァルの庭のウジェーヌ・マネと娘ジュリー」1881

ベルト・モリゾは1895年、54歳の若さで死去します。ウジェーヌもすでに世を去っていて、両親を失ったジュリーはまだ16歳でした。 そのジュリーの後見人となったのが、詩人のマラルメ、ドガ、モネ、ルノワールなど、モリゾの親しい友人たちです。 後にジュリーが結婚した相手は、ドガの弟子の画家エルネスト・ルアールでした。ルアールという名前からもわかるように、ドガの親友で印象派展の常連だったアンリ・ルアールの息子です。ドガの紹介で交際が始まり、結婚に発展しました。 印象派の画家たちは、公私ともに助け合う仲間たちでもあったのです。

 

ルノワール「猫を抱くジュリー・マネ」1887

マネ「じょうろに座るジュリー・マネ」1882

ちなみに、ベルト・モリゾの半生は、映画『画家モリゾ、マネの描いた美女~名画に隠された秘密』でも取り上げられています。モリゾが妻子のあるマネを愛していたために結婚が遅れたという説を採用した伝記映画です。

 

 


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