ピカソと共にキュビスムを始めた画家は?
~ジョルジュ・ブラックの数奇な人生
フォーヴィスム運動の中心人物がマティスだとすれば、キュビスム運動の中心人物はピカソであることに異論を持つ人は少ないでしょう。
しかし、20世紀初頭に、ほとんど時をおかずして起こった、この2つの芸術運動の橋渡しをした画家がいることはあまり知られていません。
その画家の名前をご存じでしょうか?
2018年12月現在、三菱一号館美術館でフィリップス・コレクション展が開かれています。
会場に並ぶのは、ピカソ、ブラック、ドガ、ゴーギャン、セザンヌ、ボナールなどフランス近代絵画の名品の数々。
フィリップス・コレクションはワシントンにある美術館で、フィリップスの創業者であるダンカン・フィリップスが集めた美術品を展示しています。
このダンカン・フィリップスがパトロンをしていた画家こそ、今回とりあげるジョルジュ・ブラックです。
フォーヴィスムには、3つのグループがありました。
1つは、マティスやルオーやマルケなどのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の生徒たち。
もう1つは、ヴラマンクやドランやドンゲンといったアウトサイダーたち。
最後の1つは、デュフィとフリエスとブラックの、ル・アーヴルで育った画家たちです。
この3つのグループのうち、最も遅れてフォーヴィスムに参加したのが、ル・アーヴルの画家たちでした。
彼らは年齢も若く、中でも1882年生まれのブラックは最年少のフォーヴィストでした。
フォーヴィスムの中心人物であり最年長のマティスは1869年生まれで、ブラックとの差は13歳もありました。
フォーヴィスムの名前が生まれたのは1905年のサロン・ドートンヌですが、ル・アーヴルの画家3人のうちデュフィとブラックは、この展覧会に参加していません。
この2人は遅れてきたフォーヴィストでした。
しかし、デュフィもブラックもこの年、マティスやドランの絵を見て非常に感銘を受け、すぐさまフォーヴィスムの仲間に参入します。
当時、デュフィは26歳、ブラックは21歳でした。若さゆえに感性も鋭く、行動も素早かったのです。
ちなみにブラックがル・アーヴルに引っ越してきたのは8歳のときです。
長じてル・アーヴル市立美術学校に入学したブラックは、先輩のデュフィとフリエスに出会い、生涯の親交を結びます。
ル・アーヴルは小さな港町ですから、少年時代のブラックがデュフィの兄からフルートを習っていたとのエピソードもあります。
18歳になったブラックは、パリに出て美術教室に入り、先にパリに来ていたデュフィとフリエスと再会します。
しかし、当時のブラックは画家を目指していたわけではありませんでした。
父親が建築塗装業者だったので、ブラックも少年の頃から塗装屋の徒弟として修業を積み、パリに来たのもパリの塗装屋で徒弟仕事をするためでした。
後のブラックの絵が平面性を強く意識しているのは、塗装屋としての経験からかもしれません。
塗装業をしながらも、絵を描くことが好きだったブラックは、1905年、21歳でフォーヴィスムに出会い、ますます絵画にのめりこんでいきます。
1906年にはサロン・ザンデパンダンに7点のフォーヴィスム絵画を初出品します。
その年の末から翌年にかけて、尊敬するセザンヌの暮らしたレスタックに滞在して絵を描いています。このセザンヌへの傾倒が、やがてブラックをキュビスムへと向かわせます。
1908年、ブラックはレスタックで描いた7点の絵を、マティスの設立したサロン・ドートンヌに出品します。
しかし、マティスはこれらを「すべてキューブ(立方体)だ」と言って2点しか展示を許可しませんでした。
ブラックはこれを不服として、7点の絵画すべてを引き上げます。
こうしてブラックとフォーヴィスムとの関係は、わずか2年で終わりました。
ブラックはフォーヴィストの最後の一人でもありましたが、キュビスムの創始者としても知られています。
ブラックがキューブを使って絵を描いたのは、構成の大切さを強調したセザンヌの教えが大きいのですが、1907年にピカソと出会って、制作途中の「アヴィニョンの娘たち」を見たことの影響も指摘されています。
お互いにセザンヌに感銘を受けていたピカソとブラックは意気投合し、一緒に絵を描くようになります。
後にキュビスムの代表手法となるパピエ・コレ(貼り紙のコラージュ)などは、ブラックが最初に始めてピカソが真似をしたものです。
当時の二人の作品は、あまりにも似ているため見分けがつかないほどです。
現在、キュビスムといえばピカソと思われていますが、創始者の名前に相応しいのはブラックの方です。
二人の蜜月時代は1908年から1913年まで5年間に渡って続きましたが、急に終わりを告げました。その後、二人ともお互いについて語っていないので理由はわかりません。
一般的な知名度の高さから、ピカソがキュビスムの代名詞となったのは、ブラックにとっては不本意でしょう。
ピカソと別れたブラックは、1914年から兵役で第一次世界大戦に参加しますが、戦場で重傷を負い、一時は失明状態に陥ります。
そのため1916年までの3年間は絵を描いていません。
しかしブラックのすごいところは、1917年に復帰すると、まるで3年間のブランクがなかったかのように、1913年の絵の続きを描いているところです。
一般的な美術史であれば、ブラックについての言及はキュビスム絵画を描いていた1920年代までですが、もちろんブラック自身は1963年に81歳で亡くなるまで絵を描き続けます。決して派手ではないものの、ピカソのようなスキャンダルとも無縁で、実直に画家人生を送ったブラックに対し、フランス政府は国葬の扱いで報いました。
ブラック作品のオークションでの最高落札価格は、1994年のクリスティーズにおける「ラ・シオタの風景」(1968年)の1400万ドルです。
この価格はピカソやマティスには及びませんが、ほとんどのフォーヴィストやキュビストよりも高額の記録となっています。
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