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アンリ・マティス

アンリ・マティス(HENRI MATISSE) 絵画作品販売

アンリ・マティス、リトグラフ、銅版画などオリジナル版画など中心に販売しております。

販売サイト掲載の作品は画廊でご覧いただけます。

アンリ・マティスの作品一覧

アンリ・マティス

ヴィサージュ 2

リトグラフ(石版画)

31×23cm

アンリ・マティス

ヴィサージュ 3

リトグラフ(石版画)

31×22cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:なわとび(青)

リトグラフ(石版画)

34x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:青いヌード1

リトグラフ(石版画)

34.5x25.3㎝

アンリ・マティス

ヴェルヴ:青いヌード2

リトグラフ(石版画)

34x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:青いヌード3

リトグラフ(石版画)

34x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:青いヌード4

リトグラフ(石版画)

34x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:プール1

リトグラフ(石版画)

34x102cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:トルソ

リトグラフ(石版画)

34x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:中国の魚

リトグラフ(石版画)

32x15cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:キヅタの花

リトグラフ(石版画)

24x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:コクリコ

リトグラフ(石版画)

12x50cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:アカンサス

リトグラフ(石版画)

31x34cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:ぶどうの木

リトグラフ(石版画)

32x11.5cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:なわとび(カラー)

リトグラフ(石版画)

29x18 ㎝

アンリ・マティス

ヴェルヴ:王の悲しみ

リトグラフ(石版画)

33.5x45cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:植物

リトグラフ(石版画)

33x39.5cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:デコレーション・フルー…

リトグラフ

33x70cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:壺を持つ女性(2点組)

リトグラフ(石版画)

34x24cm

アンリ・マティス

ヴェルヴ:黄色い背景のヌード

リトグラフ(石版画)

26x23.5cm

66件中

1-20件

作品カテゴリ

アンリ・マティスの魅力

フォービスムの巨匠 アンリ・マティス

1869年~1954年

マティスの明るく華やかな作品を豊富に

マティス絵画販売サイトでは、マティスの代表作や人気のオリジナル版画を中心に幅広く取り揃え販売しております。
絵画販売サイトに掲載されている絵画は、翠波画廊にご来廊いただければ、現品をご覧いただけます。

ヴィサージュ

「ヴィサージュ 2」

1946年 リトグラフ 230部

マティスらしいイラストタッチな作風の女性像のシリーズです。デフォルメされた描き方ながら、1枚1枚表情の違いを楽しめる作品です。

ヴェルヴ

「果物とヌード」

1958年 リトグラフ 大部数刷り

翠波画廊では1954年にマティス指揮のもと、グワッシュで着色した紙をベースにした切り絵から制作された、「ヴェルヴ」35/36号(刊行はマチス没後の1958年)からのリトグラフを販売しています。

真贋には細心の注意を

翠波画廊では、マティスのカタログレゾネに掲載されている作品を取り揃えております。

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「人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい」

マティスはピカソと並び、20世紀を代表する画家として語られます。1869年フランス郊外に生まれたマティスは、法律を学んだのち、20歳を過ぎてから絵画の世界へと足を踏み入れ、油彩のほか多くの版画を残しています。また「切り絵」という独自の表現方法で、晩年まで自らの芸術を探求し続けました。その画家人生のなかで、マティスが目指したのは「人々を癒す肘掛け椅子のような絵」を描くことでした。彼は、鑑賞者の心を和ませることに、芸術の意味を見出していたのでしょう。

フォービズムとその後の画風

色彩を重要視していたマティスは、観る者の視覚的効果や心理的効果をその作品の上で追求しました。当初はフォービズムに分類され、ルオーやヴラマンクなどとともに色彩豊かな作品を残しています。フォービズムはその後の美術界にも大きく影響するほど、大きなインパクトがありましたが、長く続いたムーブメントではなく、マティスも他のフォーブの画家と同じく、違う画風に移っていきます。フォービズムの後のマティスは、2度のモロッコ旅行をきっかけに、1917年~29年頃非西洋のオリエンタリズムに影響を受けたプリミティブな作品を精力的に制作します。また、色とともに線の動きも重要視した彼は、線描のデッサンや版画も多く残しました。

マティスと切り絵

1941年の大病ののち、油彩制作が難しくなったことをきっかけに、マティスは切り絵という次なる手法で色彩を追い求め始めます。ベッドで制作することが多くなったため、助手によってあらかじめグワッシュで彩色された紙を切り抜き、貼り合わせて切り絵画を制作しました。時代の流れや彼の人気の高まりとともに画風は移り変わりましたが、マティスは常に色彩や線描の美しさを追い求めていたのではないでしょうか。そして、線と色とを一度に表現できるものとしてたどり着いたのが「切り絵」だったといえるでしょう。

アンリ・マティスの生涯

1869年 アンリ・マティス、北フランスのカトー=ガンブレジーにて、商人の家に生まれる。
1887年 パリへ出て法律の勉強を始める。
1889年 法律事務所の見習生となるためサン・カンタンへ戻る。
盲腸炎の療養期間に母から贈られた画材で絵を描き始める。
カンタン・ラトゥール美術学校の朝のデッサンコースへ通う。
1891年 法律を捨て、画家になることを決心し、パリのアカデミー・ジュリアンに入学。
1892年 アカデミー・ジュリアンをやめる。エコール・デ・ボザールの入学試験には落ちてしまったものの、特別聴講生として、ギュスターヴ・モローの教室に迎えられる。モローの教室では生涯の友情を結ぶルオーやマルケと知り合う。この頃より1894年にかけて、モローの奨めによりルーヴルに通い多くの模写を行う。
1896年 ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザール展に4点の作品を出品。そのうち写実的な描写で、落ち着いた暗めの色彩で描いた「本を読む女」は国家の買上となり、ランブイエ城に飾られた。また同展の準会員に推挙される。
1898年 アメリ―・パレイルと結婚する。
1891年 法律を捨て、画家になることを決心し、パリのアカデミー・ジュリアンに入学。
1899年 彫刻にも関心があったマティスは、エコール・デ・ボザールを離れ、彫刻の授業を受けるべくアカデミー・カリエールへ移り、ドランやヴラマンクと知り合う。この頃、シニャックの影響を受けて新印象派的な作品を制作する。
1900年 経済的に困窮し、夫人はシャトーダンに帽子店を開き生活を助ける。
1902年 ベルト・ヴェイユ画廊への出品をはじめる。この頃最初の版画作品(ドライポイント)を制作。
1903年 サロン・ドートンヌ設立。ルオー、マルケ、ボナールらと共に出品。
1904年 ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザール展に4点の作品を出品。そのうち写実的な描写で、落ち着いた暗めの色彩で描いた「本を読む女」は国家の買上となり、ランブイエ城に飾られた。また同展の準会員に推挙される。
1905年 夏をドランとコリウールで過ごし、ともにフォービズムに達する。

フォービズムとは?

1905年のサロン・ドートンヌの同じ部屋に、マティスを始め、ドラン、フリエス、マルケ、ピュイ、ルオー、ヴラマンク等が作品を展示。荒々しく強烈な色彩で表現された作品が並び、それを見た批評家たちによってフォーブ(野獣派)のあだ名が付けられ、フォービズムが誕生しました。

1906年 アンデパンダン展に「生きる幸福」を発表。木版画やリトグラフの作品をはじめて手掛ける。
1907年 「青い裸婦」を制作し、同年のアンデパンダン展に出品。はじめて外国での展覧会へ出品する。
学校で絵を教える。
1908年 Note d’un peintre(二見史郎訳『画家のノート』に収録)を発表。
この年、モスクワの大コレクター、シチューキンが『食卓の赤のハーモニー』(エルミタージュ美術館)等を買い1911年にはその招きでモスクワを訪れる。
1909年 フェリクス・フェネオンの仲介でベルネーム=ジュンヌ画廊と最初の契約を結ぶ。
1911-12年 2年続けてモロッコへ旅行。この時代からさまざまな空間表現の実験、装飾的要素の大胆な使用を試みる。
1916年
マチス テラスのオダリスク
「テラスのオダリスク」

「テラスのオダリスク」1922年 銅版画
この年から冬をニース、夏をパリですごすことが多くなり、「オダリスク」の主題を好んでとりあげる。
マティスの代表的な題材であるオダリスクは、1912-13年頃のモロッコ旅行の時に着想を得たようです。オダリスクとは、トルコの後宮に仕える女奴隷のこと。オリエンタリズムの典型的な画題として、マティスの他にもアングルやルノワールがよく取り上げたテーマです。こちらの作品でマティスは、絨毯や調度品を装飾的に大胆な彩りで描いています。
「テラスのオダリスク」作品詳細>>

1918年 ポール・ギョーム画廊においてピカソと二人展(カタログ序文はアポリネールが書く)。
1922年 リトグラフをはじめる。この一連のリトグラフ作品は1925年の「縞模様のパンタロンのオダリスク」においてその頂点に達すると言われる。
1931年 ニューヨーク近代美術館においてアメリカにおける最初の大規模な個展が開かれる。フランス国立美術館に素描6点を寄贈する。
1933年 アメリカ、メリオンのバーンズ邱の壁画『ダンス』を制作、以後、平面化と単純化の試み(『バラ色の裸婦』1935年、ボルティモア美術館など)をへて、40年代の大室内の連作に達する(『赤い大室内』1948年、パリ、国立近代美術館など)。
1934年 「ユリシーズ」のための版画を制作する。
1937年 ショスタコヴィッチ音楽、マッシン振付けによるバレー<赤と黒>の衣装および舞台デザインを依頼される。
1941年 大手術を受ける。
1942年 「シャルル・ドルレアン詩集」の挿画を制作。ピカソと交友。互いに作品を交換する。
1943年 ヴァンスの別荘に移る。この頃より、切り絵細工を始める。
1946年
マチス ヴィサージュ
「ヴィサージュ 14」

「ヴィサージュ」1946年 リトグラフ

デフォルメされた女性が一色で描かれたシリーズですが、簡潔な表現にも関わらず、それぞれの女性の表情がよく捉えられています。マティスらしいイラストタッチな作品で、彼の豊かな才能を感じられます。

「ヴィサージュ」作品一覧ページ >>

1947年 制作に3年かかった「ジャズ」がテリアードの編集により出版される。主要作品が、新しく建ったパリ国立近代美術館に入る。
1949年 ヴァンスのロザリオ礼拝堂着工。コーン・コレクションがボルチモア美術館に入る。
1951年 東京国立博物館、ニューヨーク近代美術館においてマティス展が開かれる。
1952年

マチス 青いヌード

「青いヌード2」

「青いヌード2」1958年 リトグラフ

故郷のル・カトーにマティス美術館が開館する。切り絵「ブルー・ヌード」の連作を制作する。
マティスの画風は時代によって変わりますが、身体のヴォリュームを描くというテーマは追及し続けました。晩年に描かれた「ブルー・ヌード」のシリーズは、その集大成ともいえる作品です。翠波画廊では1952年の切り絵の原画を基に制作された、リトグラフを多く取り扱っています。これらは『ヴェルブ』に挿入されています。

「青いヌード2」作品詳細 >>

1954年 ニューヨークにおいて展覧会。ユニオン・チャーチのバラ窓をデザインする。11月3日、ニースで死去。

VERVE(ヴェルヴ)

1937年から60年にかけて、フランスで出版された大型豪華美術雑誌「VERVE(ヴェルヴ)」。一人の画家に全ページを使った”世界で最も美しい美術雑誌”といわれるこちらの雑誌では、マティスの特集号も刊行されています。 また、「ヴェルヴ」のほか「ジャズ(1947年)」という作品集も有名で、マティスは当代きっての色彩画家と評されました。遊び心がありながらも、バランスの取れた色の配置、流れるような線の動きこそが、彼の追い求めた芸術だったのではないでしょうか。モダンな配色と構図は、現代においても私たちの心をリズミカルに楽しませてくれます。翠波画廊では1954年にマティス指揮のもと、グワッシュで着色した紙をベースにした切り絵から制作された、「ヴェルヴ」35/36号(刊行はマティス没後の1958年)からのリトグラフを販売しています。

マティスの値段について

~『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)より一部抜粋
印象派のメンバーが活躍していた頃はまだ画家の地位が低く、絵が高額で売れるとは考えられていませんでした。しかし、それから30年を経たマティスの時代、つまり20世紀初頭には、絵画は高額での売却が見込める資産になっていました。
そんな時代性もあり、マティスは40代で成功した画家として一定の名声を得ました。そして、自分の好きな絵に時間をかけて取り組む余裕を手に入れたのです。年の離れたピカソと友情を結び、二大巨匠と並び称されるまでに至ったマティスは、ピカソに負けず劣らず、作風の変化が激しい画家でした。といっても二人の性格は対極的です。感情的で気の向くままに振る舞いがちなピカソに対して、マティスは理知的な作家でした。セザンヌと同様、作品を作る時でも、一つひとつの線の意味や色の配置をじっくりと考えて制作していたと考えられています。晩年のマティスは、紙の切り絵の作品を数多く作っています。中でも、1952年の『王の悲しみ』は、3mx4m近い超大作で、マティス自身「自分の最良の絵画に匹敵する」と自負する傑作です。マティスの切り絵は、寒色系の青や黒、暖色系の赤や黄色を、原色で大胆に使うことで、絵が飛び出たり引っ込んで見えたりする効果をうまく利用しています。切り絵作品は油彩とはずいぶん違いますが、色彩に注目すると、さすがマティスとうなりたくなる理知性が見えてきます。

もっと詳しく知りたい方は・・・
『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)

全国書店、amazonで好評販売中

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3. 絵画を使った節税対策


2015年度から美術品に関する税制が変わり、取得価額が100万円未満の美術品が償却資産に出来るようになりました。経費での絵画購入をご検討の場合は、まずは翠波画廊にご相談ください。
購入後の流れ、売却なども視野に入れた具体的な内容をアドバイスします。

お電話、メールでもお気軽にお問い合わせください。

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アンリ・マティス略歴

HENRI MATISSE

1869年 アンリ・マティス、北フランスのカトー=ガンブレジーに生まれる。
1887年 パリへ出て法律の勉強を始める。
1888年 法科適格試験に合格する。
1889年 法律事務所の見習生となるためサン・カンタンへ戻る。またその傍ら、カンタン・ラトゥール美術学校の朝のデッサンコースへ通う。
1891年 法律を捨て、画家になることを決心し、パリのアカデミー・ジュリアンに入学。
1892年 アカデミー・ジュリアンをやめる。マティスはエコール・デ・ボザールのモロー教室でルオー等と知り合う。この頃より1894年にかけて、モローの奨めによりルーヴルに通い多くの模写を行う。
1896年 ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザール展に4点の作品を出品。そのうち「本を読む女」は国家の買上となり、ランブイエ城に飾られた。また同展の準会員に推挙される。
1900年 経済的に困窮する万国博覧会のためのグラン・パレの装飾を請け負う。夫人はシャトーダンに帽子店を開き生活を助ける。
1901年 シニャックの主宰するアンデパンダン展に出品する。
1902年 経済的困窮はさらに深刻となる。
1903年 サロン・ドートンヌ設立。最初の版画作品を制作する。
1904年 ヴォラールの画廊において最初の個展が開かれる。
1905年 ドラン、フリエス、マルケ、ピュイ、ルオー、ヴラマンク等がサロン・ドートンヌの同じ部屋に作品を展示。フォーヴの誕生。
1906年 アンデパンダン展に「生きる幸福」を発表。最初のリトグラフおよび木版をてがける。
1907年 「青い裸婦」を制作し、同年のアンデパンダン展に出品。
1909年 フェリクス・フェネオンの仲介でベルネーム=ジュンヌ画廊と最初の契約を結ぶ。
1910年 ベルネーム=ジュンヌ画廊において大規模な回顧展。
1913年 ベルネーム=ジュンヌ画廊で滞モロッコ作品の展覧会を開く。
1914年 ベルリンで回顧展が開かれるが、第一次大戦勃発により会場は閉鎖される。
1918年 ポール・ギョーム画廊においてピカソと二人展(カタログ序文はアポリネールが書く)。
1921年 ピッツバーグで開かれたカーネギー国際展に招待される。
1922年 リトグラフをはじめる。この一連のリトグラフ作品は1925年の「縞模様のパンタロンのオダリスク」においてその頂点に達すると言われる。
1930年 カーネギー国際展の評議委員としてアメリカへ招かれる(この年の大賞はピカソが受賞)。
1931年 ニューヨーク近代美術館においてアメリカにおける最初の大規模な個展が開かれる。フランス国立美術館に素描6点を寄贈する。
1934年 「ユリシーズ」のための版画を制作する。
1937年 ショスタコヴィッチ音楽、マッシン振付けによるバレー<赤と黒>の衣装および舞台デザインを依頼される。
1942年 「シャルル・ドルレアン詩集」の挿画を制作。ピカソと交友。互いに作品を交換する。
1943年 ヴァンスの別荘に移る。この頃より、切り絵細工を始める。
1945年 ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館において、ピカソ・マティス二人展が開催される。
1947年 制作に3年かかった「ジャズ」がテリアードの編集により出版される。主要作品が、新しく建ったパリ国立近代美術館に入る。
1949年 ヴァンスのロザリオ礼拝堂着工。コーン・コレクションがボルチモア美術館に入る。
1951年 東京国立博物館、ニューヨーク近代美術館においてマティス展が開かれる。
1952年 故郷のル・カトーにマティス美術館が開館する。切り絵「ブルー・ヌード」の連作を制作する。
1954年 ニューヨークにおいて展覧会。ユニオン・チャーチのバラ窓をデザインする。
1954年 11月3日、ニースで死去。

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