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藤田嗣治(レオナール・フジタ)

藤田嗣治(レオナール・フジタ)絵画作品販売

藤田嗣治、人気の猫や少女のほか、乳白色時代の作品や自画像など、油絵、水彩、素描、サイン入りオリジナル版画を販売しております。

販売サイト掲載の作品は画廊でご覧いただけます。

藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品一覧

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

少女像

油彩

24.4x19cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

ベレー帽を被った少女

鉛筆・紙

31.6x19.7cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

人形のある静物

油彩

33.3x24.2cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

母子像

墨、紙

22.5x15.5cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

体操の時間(絵皿)

グワッシュ・陶器

φ45cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

赤子と猫

墨、水彩、紙

11.1x14.7cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

二人の友達(ビュイッソン鑑定付)

銅版画

56x37cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:オペラ座の夢

銅版画

23.5x29㎝

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:お針子娘

銅版画

33x24cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:ヴァンドーム広場

銅版画

33x24㎝

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:テルヌ広場

銅版画

33x24㎝

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:無垢の泉(君代夫人…

銅版画

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:海の生物(君代夫人…

銅版画

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

マドンナのプロフィール(ビュイッ…

リトグラフ

31.5x24cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

女性の顔(ビュイッソン鑑定付)

リトグラフ

31.5x24.5cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

パンと牛乳を持つ二人の子供(ビュ…

リトグラフ

10.5x8cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

魅せられし河:市場(モノクロ)

銅版画

31x25㎝

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

母と子(ビュイッソン鑑定付)

リトグラフ

54.5x46.5cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

二人の少女(ビュイッソン鑑定付)

リトグラフ

43x27.0cm

藤田嗣治(レオナール・フジタ)

夢(ビュイッソン鑑定付)

リトグラフ(石版画)

45×59㎝

522件中

1-20件

作家の魅力

1 世界で活躍、成功した画家

1 世界で活躍、成功した画家

近代日本の美術界において、一般的な画家が目指したのは、日本での成功でした。
そのため、多くの画家たちがフランス、パリにわたり、技術や経験を身に付け、経歴に箔をつけて帰国しました。
しかし、藤田嗣治が目指したのは、芸術の都フランス、パリでの成功です。
他の画家が考えるように単なる足掛かりとしての渡仏ではなく、画家として成功するために選んだ場所だったのです。
藤田は独自の技法によって、のちに藤田の代名詞ともなる「乳白色」を実現。これは日本画で使う面相筆を用いた独特の細い線描と、透き通るような肌が特徴で、パリにおいて大絶賛となり、フランス画壇における藤田の評価、地位を獲得することとなりました。通常は日本人でも思いつかない、しかしながら非常に日本人らしさの表れた乳白色の技法は、日本人の魂を持った藤田だからこそ成し得ることのできた功績です。
後にも先にも、藤田嗣治ほどの画家はいないと言っても過言ではないでしょう。

2 価格が高騰し続ける世界的巨匠

2 価格が高騰し続ける世界的巨匠

近代画家において、海外のオークションで今なお高値が続いている一番の画家が、藤田嗣治です。
特に近年では価格が急上昇した例がいくつか見られます。
2016年4月3日の香港のオークションで、「猫とヌード」100号作品が日本円で約5億7千万円で落札され話題となりました。
これは実は2014年の3月にロンドンで開催されたオークションで、日本円で約2億5千6百万円で落札されていたものでした。2年で約2倍の価格上昇となったものです。
ほかにも2018年10月11日イギリス、ロンドンのオークションでは「La fête d’anniversaire」)誕生日パーティ)が、オークション会社の当初の見積もりよりも5~8倍上昇し、約10億円で落札されました。
これは、これまでに落札された藤田嗣治の作品の中でも最高価格に当たります。
藤田は生前、油彩をはじめ驚くほど多くの作品を残しておりましたが、生前から評価され人気も高かったため世界中のコレクターによって購入されたこと、またそれがなかなか手放されることがないため市場に出回る作品が少ないために、価格の上昇現象が起きていると考えられます。さらに近年は中国人の富裕層も買い手に参入してきているため、今後も藤田嗣治作品の価格の動向から目が離せません。
このように世界的に価格(価値)ある藤田嗣治の油彩や水彩、素描など肉筆画は、資産としてのご購入もお勧めできます。

3 手仕事の人、版画の可能性に挑戦した作家

3 手仕事の人、版画の可能性に挑戦した作家

藤田は、身の回りのものを何でも手作りする手仕事の人でもありました。牛乳瓶や缶などにも絵を加え、生活の中に生きさせました。
作品そのものも油彩や水彩といった一般的な絵画のほかに、版画を技法の一つとして重要視し、創作に加えていきました。リトグラフ(石版画)をはじめ、木版画、銅版画、ポショワール、コロタイプなど、様々な版画の技法を身に付けた藤田は、表現手段として作品に応じた技法を駆使していきました。
そこには版画だからこそ表現できる、藤田独自の新しい世界が拓かれたのです。
そのため、藤田のサイン入りオリジナル版画や、版画による挿絵が入った挿画本等が数多く制作され、現在も多くのコレクターを魅了し続けています。

真贋には細心の注意を

藤田嗣治ほどの人気画家になるとどうしても贋作が出回ってしまいます。
翠波画廊では、原画は鑑定書の付いたものだけを取り扱っていますが、版画作品には鑑定書が発行されません。そのため仕入れた版画で気になることがあった場合、藤田嗣治研究の第一人者で藤田嗣治の鑑定家シルヴィ・ビュイッソンさんに見てもらい、真作と確認できたものだけをご紹介しています。

藤田嗣治(レオナール・フジタ)の生涯

パリの絵画を目指して

パリの絵画を目指して

1886年生まれの藤田嗣治。20世紀初頭、パリが芸術の都として華やぎ世界中から画家としての成功を夢見た若者がパリを目指しました。 藤田嗣治もまた「僕は夢見るパリのトップの絵描きになりたかった。僕はその源泉に行く必要があった」と志し高く、東京美術学校(現在の 東京美術大学)を卒業後、1913年に渡仏します。パリのはずれの画家が多く集まるモンパルナスに居を構えます。 持ち前の社交性から モンパルナスの有名人となり、そこに集まったピカソ、モジリアーニ、スーチン、キスリングなどと親交を深めながらヨーロッパ芸術の圧倒される奥の深さ、新しい動きが目覚しく展開する芸術界に多大な刺激を受けます。1917年にはシェロン画廊との契約、1919年には初出展のサロン・ドートンヌに出品した6点の絵画がすべて入選するという快挙を成し遂げ会員にも選ばれます。1921年のサロン・ドートンヌでは滑らかな下地の上に繊細な線と薄塗りで繊細に描いた出品作が「グラン・フォン・ブラン」(素晴らしき乳白色)と絶賛され画家としての揺るぎない地位を確立します。 これを機にサロン・ドートンヌの審査員、日本では帝展の委員となり絵の注文も殺到します。

藤田の乳白色

藤田の乳白色

「我々の先祖が最も得意とした黒という色は既に先輩が十分に我々に示して居る。 とてもその黒では先輩に勝つことは出来ぬ、それでは黒の反対の白である。白はただ物の明暗、それの遠近の明るい意を表すために用いられているが、 僕は白を白色としてその白色の美しさを土台に使って生かしてみようと思った。 そして今まで白を白色としていかして描いた人は一人もいなかったという事に気がついたのである」 それまで誰も試みることのなかった独自の絵画を作り出そうとする決意と乳白色の絵画が生み出された動機をうかがい知ることが出来ます。藤田の妻だったユキやマドレーヌ、「モンパルナスの女王」と呼ばれたキキをモデルに描かれた乳白色の女性像は、高く評価されました。

画家にして版画家(パントル・グラヴュール)

画家にして版画家(パントル・グラヴュール)

1920年代中頃から版画制作にも力を入れ始めます。25年のパリ、サロン・デ・テュイルリー、同年東京での仏蘭現代美術第二次展覧会にパリ、エトワール画廊の個展にまたその後の展覧会に版画を多数出品しています。 版画を技法の一つとして創作に生かしていこうとする意欲と元来の旺盛な好奇心から木版画、銅版画、リトグラフ、ポショワールなど 版画の技法を身に付け自らの表現手段として創作に生かしていった表現者「画家にして版画家」(パントル・グラヴュール)となります。1927年には「ルーブル美術館銅版画室」が藤田のエッチングの原版(自画像)を収蔵します。1929年には初期の代表作「猫」「子供」「女」をテーマとした10枚一組の版画集がアポロ社から出版されます。藤田が油絵表現で完成させた乳白色の下地の質感を版画で紙の上に再現させようとさまざまな工夫をこらした労作です。ルイ・マカールという印刷職人が藤田の監修のもと、写真製版、エッチング、ドライポイント、アクアチントによる混合技法(マカール法)で刷られたたいへん手間のかかった作品です。乳白色を背景とし淡い色彩と繊細な描線で輪郭を描いた「グラン・フォン・ブラン」(素晴らしき乳白色)の時代を代表する版画です。

また藤田は有名な詩集や小説に画家が版画による挿絵を付した挿画本の制作でも「画家にして版画家」としての才能を遺憾なく発揮します。20年代だけで30点以上の挿画本を手がけました。

‘23 日本昔話(世界で最も美しい話)
‘25 ポーゾル王の冒険
‘26 お梅さんの三度目の青春
‘27 エロスの愉しみ、平行棒、御遠足、日出る国の黒鳥
‘28 獣一党
‘30 猫の本

1929年9月に日本での初個展のため帰国の途につきます。 1930年にはアメリカ経由でパリに戻ります。 わずかなアメリカ滞在中にニューヨークで「猫の本」が出版されます。 藤田が前年パリで描いた20点の猫の素描をもとにコロタイプ印刷による猫にマイケル・ジョゼフがつけた猫の名前と書き下ろしの短文が 添えられフランスの手漉きのアルシュ紙を使用し500部の限定で制作されました。

1931年

ヨーロッパでは不況とナチズムの台頭で排外主義が高まり、パリでの生活基盤を放棄してマドレーヌを伴い中南米の旅に出ます。

1933年

帰国

1936年

外務省からの依頼を受け対外日本宣伝用映画「風俗日本」を完成、また自著「腕一本」が出版されます。

1937年

秋田の平野政吉の依頼により大壁画(秋田の行事)を描く。

1941年

帝国芸術院会員に推挙される。「作戦記録画」の制作と発表が本格化、そのための戦線取材にも派遣が続く。

1942年

開戦1周年記念の第一回大東亜戦争美術展(12月8日の真珠湾)(シンガポール最後の日)出品。

藤田の戦争画

藤田の戦争画

戦時中、軍が戦意高揚を目的として多くの画家に戦争画を描かせました。
藤田も愛国心とそれまでに培った自身の技量を存分に発揮できると戦争画にのめり込んでいきます。
「今日のため40余年の歳月を私は過ごしてきた。絵画が直接お国に役立つということは何という果報なことであろう。
私の右腕はお国に捧げた気持ちでいる」藤田の強い野心がうかがい知れます。
現在、藤田の戦争画はアメリカからの無期限貸与作品として、「アッツ島玉砕」をはじめとする14点が東京国立近代美術館に収蔵されています。

1945年

敗戦。敗戦直後からにわかに軍に加担し戦争画を描いた画家たちにも戦争責任が課せられるのではないかといううわさが広がり始めます。しかし、画壇での責任追及はGHQに追及されることを恐れた日本人の側から始まります。敗戦の2ヵ月後には朝日新聞に「美術家の節操」と題して藤田を激しく批判する文章が記載されます。その後も戦争責任をめぐる議論として「文化人の蛮勇、期待、粛清、自らの手で」と刺激的な記事が朝日新聞に掲載されます。 軍国主義的風潮の助長を「指揮」したボス的存在は徹底的に排除されねばならぬと美術界でも戦争責任を負うべき画家を自らの手で追放しようと動き始める中、藤田にその矛先が向けられます。そんな中、戦争責任をめぐって混迷を繰り返した画壇に「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」と捨てぜりふを残し日本を後にします。

1949年

アメリカ入国、ニューヨークに定住。当時、現地で画家として成功していた国吉康雄とアメリカの日系人たちは「敵性外国人」として白眼視される中「戦争」を拭い去ろうと懸命な苦闘をしていました。 そこに現れた戦争画の藤田は厄介な闖入者で到底受け入れることはできませんでした。新天地であるはずのアメリカでも孤独感を強めていきます。藤田は滞在一年にも満たずアメリカを離れることになります。

1950年

パリに戻りモンパルナスに定住

1951年

藤田65歳の誕生日を祝してルネ・エロン・ド・ヴィルフォスの著書に藤田がエッチングと一部には 彩色をほどこした26点の挿画が入った「魅せられし河」(出版ベルナール・クライン)が出版されます。今では高級ブティックが立ち並ぶフォーブール・サントノーレ通りに関する本で瀟洒な館が立ち並ぶ美しい街並を魅せられたる河のようだと 表現した著者のイメージにふさわしく、藤田による風景やそこに集う人々がいきいきと表現された名作です。

「魅せられし河:ボボウ広場」

「魅せられし河:オペラ座の夢」

1955年

フランス国籍を取得、日本国籍を抹消。日本芸術院会員を辞退する。

1959年

北フランス・ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナール。

1960年

パリの風俗をテーマとしたアルベール・フルニエとギイ・ドルナンのテキストに藤田の21点の多色刷り木口木版の挿画が入った、 小さな職人「しがない職業と少ない稼ぎ)(出版ピエール・タルタス)が出版されます。生涯、自分のことを職人だと自認していた藤田がパリの街角でひっそりと、 しかしたくましく生きている職人たちを子供に演じさせて親愛と敬意をもって表現しています。

「小さな職人:ポスター貼り」

「小さな職人:管理人」

1961年

パリ郊外ヴィリエ・ル・バクルに農家を改造して転居。

1963年

ジャン・コクトーのテキストに藤田の挿画がリトグラフで21点入った「四十雀」(出版ピエール・タルタス)が出版される。フランスにおける伝統的な職業や風物、建物などがつづられたフランスにまつわる内容の作品です。

1966年

洗礼を受けたランスに礼拝堂「ノートル・ダム・ドゥ・ラ・ペ(平和の聖母)」完成。教会内のフレスコ画を制作。

1968年

スイス、チューリッヒにて没。墓所はランスの「ノートル・ダム・ドゥ・ラぺ礼拝堂へ。

藤田の描く子供たち

藤田の描く子供たち

子孫のいない藤田は、自分が描いた子供たちをわが子のように愛したといいます。「私の数多い子供の絵の小児は皆私の創作で、モデルを写生したものではない。 この世の中で見た小児の印象は忘れずに画の中に取り入れる事もあるが、本当にこの世の中に存在している子供ではない。 私一人だけの子供だ。私には子供がない。私の画の子供が、私の息子なり娘なりで一番愛したい子供だ。」

藤田嗣治の値段について

~『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)より一部抜粋
藤田は、間違いなく日本が誇るべき世界的な画家です。日本人の近代画家の中で、世界的に評価をされていて、海外のオークションでも高値がつくのは藤田嗣治ただ一人といっても過言ではないでしょう。
裸婦や猫は藤田の得意な画題で、かつ全盛期でサイズも大きい絵画とはいえ、1枚で5億円を超えるような日本人画家は他にはいません。藤田嗣治についての評価は、日本の美術界において、できれば避けたい鬼門のようなものになっています。その業績にはいくつもの曖昧さがついて回るからです。 生前にはそれでもいくつかの画集が発行されていたのですが、死後はその海外の名声に比して、忘れられた画家になっていったのです。藤田は、現在でこそ再評価の機運が高まっていますが、いまだ正当な評価を受けているとはいえません。 たとえば、晩年に数多く描いた女の子の絵などは、その多くが3号以下とサイズの小さなものが、2016年現在でも2000万~3000万円くらいで取引されています。藤田の業績からすると、もっと高くてもいいのではないかと思います。

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藤田嗣治(レオナール・フジタ)略歴

TSUGUHARU FOUJITA

1886年 明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。
1905年 東京美術学校予備科に入学。東京美術学校西洋画科に入学。
1910年 東京美術学校西洋画科本科を卒業。
1913年 門司から日本郵船三島丸で渡仏。年末にモジリアニ、スーチンと知り合う。
1919年 初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選し、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。
1920年

渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。

1921年 サロン・ドートンヌの審査員に挙げられる。
1923年 サロン・デ・チュイルリーの会員となる。
1925年 レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。
1927年 銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。
1929年 17年ぶりに帰国。東京朝日新聞社屋で個展を開催。
1930年 パリに帰る。ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに1ヶ月滞在する。
1935年 大阪の百貨店の食堂に壁画、銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。(コロンバンの天井画はその後1975年に、迎賓館に寄贈された。)
1937年 秋田市の資産家・平野政吉とともに美術館の建設を構想し、壁画「秋田の行事」を制作。
1940年 第2次世界大戦の戦火迫るパリを脱出し、帰国。
1943年 戦争画「アッツ島玉砕」を発表。
1947年 ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。
1949年 代表作の一つとなる「カフェにて」を制作。羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。
1951年 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」等をパリの国立近代美術館に寄贈。
1955年

フランス国籍を取得。

1959年 カトリックの洗礼を受ける。洗礼名「レオナール」。
1966年 第2回近代日本洋画名作展に出品。
1968年 1月29日、81歳で死去。
遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。

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