藤田嗣治(レオナール・フジタ)
藤田嗣治(レオナール・フジタ)絵画作品販売
藤田嗣治、人気の猫や少女のほか、乳白色時代の作品や自画像など、油絵、水彩、素描、サイン入りオリジナル版画を販売しております。
販売サイト掲載の作品は画廊でご覧いただけます。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品一覧
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藤田嗣治(レオナール・フジタ)の魅力
藤田嗣治絵画販売サイトでは、油彩、水彩、素猫、オリジナル版画まで幅広く取り揃え販売しております。絵画販売サイトに掲載されている絵画は、翠波画廊にご来廊いただければ、現品をご覧いただけます。
作家の魅力
1 世界で活躍、成功した画家
1 世界で活躍、成功した画家
そのため、多くの画家たちがフランス、パリにわたり、技術や経験を身に付け、経歴に箔をつけて帰国しました。
しかし、藤田嗣治が目指したのは、芸術の都フランス、パリでの成功です。
他の画家が考えるように単なる足掛かりとしての渡仏ではなく、画家として成功するために選んだ場所だったのです。
藤田は独自の技法によって、のちに藤田の代名詞ともなる「乳白色」を実現。これは日本画で使う面相筆を用いた独特の細い線描と、透き通るような肌が特徴で、パリにおいて大絶賛となり、フランス画壇における藤田の評価、地位を獲得することとなりました。通常は日本人でも思いつかない、しかしながら非常に日本人らしさの表れた乳白色の技法は、日本人の魂を持った藤田だからこそ成し得ることのできた功績です。
後にも先にも、藤田嗣治ほどの画家はいないと言っても過言ではないでしょう。
2 価格が高騰し続ける世界的巨匠
2 価格が高騰し続ける世界的巨匠
特に近年では価格が急上昇した例がいくつか見られます。
2016年4月3日の香港のオークションで、「猫とヌード」100号作品が日本円で約5億7千万円で落札され話題となりました。
これは実は2014年の3月にロンドンで開催されたオークションで、日本円で約2億5千6百万円で落札されていたものでした。2年で約2倍の価格上昇となったものです。
ほかにも2018年10月11日イギリス、ロンドンのオークションでは「La fête d’anniversaire」)誕生日パーティ)が、オークション会社の当初の見積もりよりも5~8倍上昇し、約10億円で落札されました。
これは、これまでに落札された藤田嗣治の作品の中でも最高価格に当たります。
藤田は生前、油彩をはじめ驚くほど多くの作品を残しておりましたが、生前から評価され人気も高かったため世界中のコレクターによって購入されたこと、またそれがなかなか手放されることがないため市場に出回る作品が少ないために、価格の上昇現象が起きていると考えられます。さらに近年は中国人の富裕層も買い手に参入してきているため、今後も藤田嗣治作品の価格の動向から目が離せません。
このように世界的に価格(価値)ある藤田嗣治の油彩や水彩、素描など肉筆画は、資産としてのご購入もお勧めできます。
3 手仕事の人、版画の可能性に挑戦した作家
3 手仕事の人、版画の可能性に挑戦した作家
作品そのものも油彩や水彩といった一般的な絵画のほかに、版画を技法の一つとして重要視し、創作に加えていきました。リトグラフ(石版画)をはじめ、木版画、銅版画、ポショワール、コロタイプなど、様々な版画の技法を身に付けた藤田は、表現手段として作品に応じた技法を駆使していきました。
そこには版画だからこそ表現できる、藤田独自の新しい世界が拓かれたのです。
そのため、藤田のサイン入りオリジナル版画や、版画による挿絵が入った挿画本等が数多く制作され、現在も多くのコレクターを魅了し続けています。
真贋には細心の注意を
翠波画廊では、原画は鑑定書の付いたものだけを取り扱っていますが、版画作品には鑑定書が発行されません。そのため仕入れた版画で気になることがあった場合、藤田嗣治研究の第一人者で藤田嗣治の鑑定家シルヴィ・ビュイッソンさんに見てもらい、真作と確認できたものだけをご紹介しています。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)の生涯
パリの絵画を目指して
パリの絵画を目指して
藤田の乳白色
藤田の乳白色
画家にして版画家(パントル・グラヴュール)
画家にして版画家(パントル・グラヴュール)
また藤田は有名な詩集や小説に画家が版画による挿絵を付した挿画本の制作でも「画家にして版画家」としての才能を遺憾なく発揮します。20年代だけで30点以上の挿画本を手がけました。
‘23 日本昔話(世界で最も美しい話)
‘25 ポーゾル王の冒険
‘26 お梅さんの三度目の青春
‘27 エロスの愉しみ、平行棒、御遠足、日出る国の黒鳥
‘28 獣一党
‘30 猫の本
1929年9月に日本での初個展のため帰国の途につきます。 1930年にはアメリカ経由でパリに戻ります。 わずかなアメリカ滞在中にニューヨークで「猫の本」が出版されます。 藤田が前年パリで描いた20点の猫の素描をもとにコロタイプ印刷による猫にマイケル・ジョゼフがつけた猫の名前と書き下ろしの短文が 添えられフランスの手漉きのアルシュ紙を使用し500部の限定で制作されました。
1931年 |
ヨーロッパでは不況とナチズムの台頭で排外主義が高まり、パリでの生活基盤を放棄してマドレーヌを伴い中南米の旅に出ます。 |
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1933年 |
帰国 |
1936年 |
外務省からの依頼を受け対外日本宣伝用映画「風俗日本」を完成、また自著「腕一本」が出版されます。 |
1937年 |
秋田の平野政吉の依頼により大壁画(秋田の行事)を描く。 |
1941年 |
帝国芸術院会員に推挙される。「作戦記録画」の制作と発表が本格化、そのための戦線取材にも派遣が続く。 |
1942年 |
開戦1周年記念の第一回大東亜戦争美術展(12月8日の真珠湾)(シンガポール最後の日)出品。 |
藤田の戦争画
藤田の戦争画
藤田も愛国心とそれまでに培った自身の技量を存分に発揮できると戦争画にのめり込んでいきます。
「今日のため40余年の歳月を私は過ごしてきた。絵画が直接お国に役立つということは何という果報なことであろう。
私の右腕はお国に捧げた気持ちでいる」藤田の強い野心がうかがい知れます。
現在、藤田の戦争画はアメリカからの無期限貸与作品として、「アッツ島玉砕」をはじめとする14点が東京国立近代美術館に収蔵されています。
1945年 |
敗戦。敗戦直後からにわかに軍に加担し戦争画を描いた画家たちにも戦争責任が課せられるのではないかといううわさが広がり始めます。しかし、画壇での責任追及はGHQに追及されることを恐れた日本人の側から始まります。敗戦の2ヵ月後には朝日新聞に「美術家の節操」と題して藤田を激しく批判する文章が記載されます。その後も戦争責任をめぐる議論として「文化人の蛮勇、期待、粛清、自らの手で」と刺激的な記事が朝日新聞に掲載されます。 軍国主義的風潮の助長を「指揮」したボス的存在は徹底的に排除されねばならぬと美術界でも戦争責任を負うべき画家を自らの手で追放しようと動き始める中、藤田にその矛先が向けられます。そんな中、戦争責任をめぐって混迷を繰り返した画壇に「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」と捨てぜりふを残し日本を後にします。 |
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1949年 |
アメリカ入国、ニューヨークに定住。当時、現地で画家として成功していた国吉康雄とアメリカの日系人たちは「敵性外国人」として白眼視される中「戦争」を拭い去ろうと懸命な苦闘をしていました。 そこに現れた戦争画の藤田は厄介な闖入者で到底受け入れることはできませんでした。新天地であるはずのアメリカでも孤独感を強めていきます。藤田は滞在一年にも満たずアメリカを離れることになります。 |
1950年 |
パリに戻りモンパルナスに定住 |
1951年 |
藤田65歳の誕生日を祝してルネ・エロン・ド・ヴィルフォスの著書に藤田がエッチングと一部には 彩色をほどこした26点の挿画が入った「魅せられし河」(出版ベルナール・クライン)が出版されます。今では高級ブティックが立ち並ぶフォーブール・サントノーレ通りに関する本で瀟洒な館が立ち並ぶ美しい街並を魅せられたる河のようだと 表現した著者のイメージにふさわしく、藤田による風景やそこに集う人々がいきいきと表現された名作です。 |
1955年 |
フランス国籍を取得、日本国籍を抹消。日本芸術院会員を辞退する。 |
1959年 |
北フランス・ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナール。 |
1960年 |
パリの風俗をテーマとしたアルベール・フルニエとギイ・ドルナンのテキストに藤田の21点の多色刷り木口木版の挿画が入った、 小さな職人「しがない職業と少ない稼ぎ)(出版ピエール・タルタス)が出版されます。生涯、自分のことを職人だと自認していた藤田がパリの街角でひっそりと、 しかしたくましく生きている職人たちを子供に演じさせて親愛と敬意をもって表現しています。 |
1961年 |
パリ郊外ヴィリエ・ル・バクルに農家を改造して転居。 |
1963年 |
ジャン・コクトーのテキストに藤田の挿画がリトグラフで21点入った「四十雀」(出版ピエール・タルタス)が出版される。フランスにおける伝統的な職業や風物、建物などがつづられたフランスにまつわる内容の作品です。 |
1966年 |
洗礼を受けたランスに礼拝堂「ノートル・ダム・ドゥ・ラ・ペ(平和の聖母)」完成。教会内のフレスコ画を制作。 |
1968年 |
スイス、チューリッヒにて没。墓所はランスの「ノートル・ダム・ドゥ・ラぺ礼拝堂へ。 |
藤田の描く子供たち
藤田の描く子供たち
藤田嗣治の値段について
藤田は、間違いなく日本が誇るべき世界的な画家です。日本人の近代画家の中で、世界的に評価をされていて、海外のオークションでも高値がつくのは藤田嗣治ただ一人といっても過言ではないでしょう。
裸婦や猫は藤田の得意な画題で、かつ全盛期でサイズも大きい絵画とはいえ、1枚で5億円を超えるような日本人画家は他にはいません。藤田嗣治についての評価は、日本の美術界において、できれば避けたい鬼門のようなものになっています。その業績にはいくつもの曖昧さがついて回るからです。 生前にはそれでもいくつかの画集が発行されていたのですが、死後はその海外の名声に比して、忘れられた画家になっていったのです。藤田は、現在でこそ再評価の機運が高まっていますが、いまだ正当な評価を受けているとはいえません。 たとえば、晩年に数多く描いた女の子の絵などは、その多くが3号以下とサイズの小さなものが、2016年現在でも2000万~3000万円くらいで取引されています。藤田の業績からすると、もっと高くてもいいのではないかと思います。
もっと詳しく知りたい方は・・・
『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)
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藤田嗣治のご購入をご検討の方
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絵画購入について、ご質問やご不安なことはお気軽に翠波画廊にご相談ください。
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2. お部屋に合わせた絵画のご提案
「この部屋のこの場所にあう絵を探している」そんなご相談も承ります。サイズやお部屋の雰囲気、ご予算のご希望などお知らせください。1,000点以上の豊富な在庫作品から、あなたのお部屋にぴったりの1枚をご提案させていただきます。まずはお気軽にお問い合わせください。
3. 絵画を使った節税対策
2015年度から美術品に関する税制が変わり、取得価額が100万円未満の美術品が償却資産に出来るようになりました。経費での絵画購入をご検討の場合は、まずは翠波画廊にご相談ください。
購入後の流れ、売却なども視野に入れた具体的な内容をアドバイスします。
お電話、メールでもお気軽にお問い合わせください。
TEL:03-3561-1152(平日土/10:00~18:00)
メール:info@suiha.co.jp
翠波画廊では、藤田嗣治作品の買取も行っております。藤田嗣治作品の売却をお考えの方は、ご相談ください。買取査定は無料です。メール、電話などお気軽にお問い合わせください。
3つの約束
約束
1
経験豊富な
絵画コンシェルジュが
満足の対応
ご購入にあたってのご要望や、ご不安なことも
絵画コンシェルジュにお任せ下さい。
約束
2
真贋に細心の注意をはらい、
本物だけをお届け
海外の画家や鑑定家とも直接連絡が取れる
体制を整え、真贋のはっきりしたものだけを
扱っております。
約束
3
購入後も安心の
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ご購入後の作品や額のトラブル、下取りなども
お気軽にご相談ください。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)略歴
1886年 | 明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。 |
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1905年 | 東京美術学校予備科に入学。東京美術学校西洋画科に入学。 |
1910年 | 東京美術学校西洋画科本科を卒業。 |
1913年 | 門司から日本郵船三島丸で渡仏。年末にモジリアニ、スーチンと知り合う。 |
1919年 | 初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選し、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。 |
1920年 |
渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。 |
1921年 | サロン・ドートンヌの審査員に挙げられる。 |
1923年 | サロン・デ・チュイルリーの会員となる。 |
1925年 | レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。 |
1927年 | 銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。 |
1929年 | 17年ぶりに帰国。東京朝日新聞社屋で個展を開催。 |
1930年 | パリに帰る。ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに1ヶ月滞在する。 |
1935年 | 大阪の百貨店の食堂に壁画、銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。(コロンバンの天井画はその後1975年に、迎賓館に寄贈された。) |
1937年 | 秋田市の資産家・平野政吉とともに美術館の建設を構想し、壁画「秋田の行事」を制作。 |
1940年 | 第2次世界大戦の戦火迫るパリを脱出し、帰国。 |
1943年 | 戦争画「アッツ島玉砕」を発表。 |
1947年 | ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。 |
1949年 | 代表作の一つとなる「カフェにて」を制作。羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。 |
1951年 | 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」等をパリの国立近代美術館に寄贈。 |
1955年 |
フランス国籍を取得。 |
1959年 | カトリックの洗礼を受ける。洗礼名「レオナール」。 |
1966年 | 第2回近代日本洋画名作展に出品。 |
1968年 | 1月29日、81歳で死去。 遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。 |