第二次世界大戦で亡命したユダヤ人画家シャガール、
戦後の遍歴と画業
第一次世界大戦の後、パリに戻ってきたシャガールは、再び人気画家への階段を駆け上がっていきました。
当時のパリは、芸術と消費が花開いた1920年代の「狂乱の時代」です。シャガールも36歳という働き盛りの年齢で、作品を量産しました。
しかし、その幸運にも終わりが訪れます。
1933年、隣国ドイツで民主的な選挙の結果によってヒトラーを首魁とするナチス政権が発足します。
さらに1937年、ユダヤ人と前衛芸術を敵視したナチス政権は、ドイツの美術館からシャガールらの全作品を押収すると、集めた作品を誹謗するために「退廃芸術展」を開催しました。ユダヤ人シャガールの苦難の時代が再び始まります。
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ベラを失ったシャガール
ナチス・ドイツがシャガールらの作品を「退廃芸術」とした1937年、シャガールはフランスに帰化申請して、フランス国籍を取得しています。
共産主義をすすめる祖国ロシアや、ユダヤ人迫害を強めるドイツに、もはやシャガールの居場所はなくなっていたからです。
しかし、フランスもユダヤ人にとって安全な場所ではなくなってきました。
1939年、シャガールを支えてきた画商ヴォラールが73歳で亡くなった2か月後、ドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。
やがてフランスもドイツに敗れ、新たに成立したヴィシー政権は1941年、ナチスに迎合して反ユダヤ法を制定し、シャガールのフランス国籍を剥奪してしまいます。
シャガールは亡命の道を模索して、1941年にアメリカに渡りました。
英語をしゃべれないシャガールを迎えてくれたのは、ニューヨークで画商として成功していたピエール・マティス(画家アンリ・マティスの次男)です。
しかし、シャガールにとってはアメリカも安住の地ではありませんでした。
54歳になっていたシャガールは、英語を学ぶ気もなく、亡命してきたヨーロッパの芸術家とだけ付き合いを続け、1944年、連合軍によってパリが解放されたと聞くや、すぐさまフランスに戻ることを考えます。
ところが、帰国前に最愛の妻ベラが感染症にかかって亡くなります。
傷心のシャガールが、ベラとの結婚式を思い出して描いたのが《婚礼の光》です。
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シャガールの心を慰めたヴァージニア
妻を失い塞ぎ込むシャガールを見かねて、28歳になっていた娘のイダは、父の家政婦兼話し相手として、ヴァージニア・マクニールという女性を雇います。
ヴァージニアは、フランスでイギリス領事の娘として生まれ、パリのアカデミーで絵を学び、スコットランド人画家ジョン・マクニールと結婚して娘を一人産み、第二次世界大戦の勃発を機に、家族でニューヨークに亡命してきたイギリス人女性画家です。
ヴァージニアは、同じフランスからの亡命画家としてシャガールに親近感を感じたことと、夫が鬱病で働けず生計を支える必要性を感じていたことから、二つ返事でこの仕事を引き受けます。
妻を亡くした57歳の孤独な画家に、夫の鬱病で結婚生活が破綻していた30歳のヴァージニアが魅かれていくのに時間はかかりませんでした。
いつしか二人の間には愛が生まれて、1946年には息子デイヴィッドが産まれます。
夫のもとを去ってシングルマザーとなったヴァージニアのもとでデイビット・マクニール(David McNeil)という名前で育てられたシャガールの息子は、長じて後にシンガーソングライターになりました。
シャガールの後妻となったヴァランティーヌ
1948年、シャガールと娘のイダ、そしてヴァージニアとその二人の子供たちは、そろってアメリカを離れて、フランスに移住します。
フランスでも、シャガールとヴァージニアとの関係は良好でした。しかし、ヴァージニアはだんだんとシャガールとの関係に辛さを感じるようになってきます。シャガールの中にある前妻ベラの存在感を超えることができないとわかったからです。
1952年、ヴァージニアは写真家シャルル・レーランと恋におち、二人の子供たちとともにシャガールのもとを離れます。
傷心のシャガールのために、娘のイダは再び新たな話し相手を探します。
今回イダが選んだのは、ロシア生まれのユダヤ人ヴァランティーヌ・ブロツキー(ヴァヴァ)でした。シャガールがユダヤ人であることにコンプレックスを持っていたため、同じユダヤ人の女性のほうが心安いと考えたのです。
ヴァヴァは当初はシャガールの秘書として雇われましたが、すぐにシャガールの心を射止めて、結婚を条件にシャガールのパートナーになることを承諾しました、
こうして1952年、65歳のシャガールと45歳のヴァヴァは結婚式を挙げます。
シャガールとピカソの友情
フランスに戻ってきてからのシャガールは、二つの大戦以前のフランス美術界の繁栄を知る者として、マティスやピカソと同様に巨匠扱いをされるようになります。
新しい現代美術の中心地として栄えるアメリカから、わざわざフランスに戻ってきた画家というだけでも、フランス人の自尊心を満足させるのには十分でした。
戦後のシャガールは、戦前には付き合いのなかったピカソとも交流しています。
お互いに子供っぽいところのあるこの二人の芸術家は、最終的には仲違いしてしまうのですが、ピカソは「マティスが没してから色彩を真に理解していたのはシャガールだけだ。ルノワールの後で、光に対する感覚を持っているのはシャガールだけだ」と、その才能を認めています。
シャガールの最高傑作リトグラフ『ダフニスとクロエ』
《踏みにじられた花》1961年
1961年、シャガールのリトグラフで最高傑作と言われる『ダフニスとクロエ』の版画集が刊行されます。
『ダフニスとクロエ』は、古代ギリシャの物語で、エーゲ海のレスボス島に育った少年ダフニスと少女クロエの恋愛物語です。シャガールは、一枚の版画に対して、20から25もの版を重ねて刷る多色刷りを用いて、何年もかけて極彩色の鮮やかな版画集を制作しました。
『ダフニスとクロエ』は、1992年にサイン入り42点セットが手数料込み約2億円で落札されるなど、リトグラフとしては最上級の評価を受けています。
シャガールが亡くなったのは1985年のことです。享年97歳と、当時の画家としては誰よりも長命でした。
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