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日本のゴッホ? 放浪の天才画家? 裸の大将? 
山下清の人生を深掘りする

人気はあるけれども美術史における評価の分かれる画家がいます。 日本でいえば、その筆頭は山下清でしょう。
甲南大の服部正教授は、東京新聞の取材にこたえて次のように語っています。

[山下清に対する美術の専門家たちの評価は今も昔も散々です。中身がない、深みがない、踊らされているだけ…。(中略)美術の専門家たちの反応には、『高尚で洗練された』美術制度とは無縁の山下のほうが大衆的には人気が高かったことへのねたみや怒りが見てとれる]


逆に言えば、評論家からの評価など必要としないほど、山下清は人々の支持を得ていました。


2022年は山下清の生誕100周年であり、2024年までの2年間、大回顧展が全国を巡回しています。
東京展は9月で終了しましたが、10月からは宮崎県立美術館で再開されています。詳細なスケジュールはこちらをご覧ください。
アートニュース「生誕100年、山下清の大回顧展が全国を巡回中!」>>
今回は、山下清の画業を振り返ってみましょう。

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軽度の知的障がいとされた山下清

山下清「日本平からの富士」
(翠波画廊にて販売中)

山下清が画家として正当な評価を受けていない理由の一つに、もしかすると障がい者差別が隠れているかもしれません。
1922年に浅草に生まれた山下清は、幼少の頃に大病を患って、軽い言語障がいと知的障がいが残ったとされています。そのため11歳のときに知的障がい児施設の八幡学園に預けられました。
母子家庭で困窮していて、母子4人で福祉施設暮らしであったことも関係していたかもしれません。
八幡学園で、山下清は色紙を貼って絵を描く「ちぎり紙細工」を習います。
障がい児教育の一環でしたが、ここで山下清の美術の才能が花開きます。
あくまでも障がい児アートという枠組みのなかでしたが、16歳のときには初めての個展が開催され、梅原龍三郎に「作品だけからいうとその美の表現の烈しさ、純粋さはゴッホやアンリ・ルソーの水準に達していると思う」と高く評価されました。のちに日本のゴッホと呼ばれたのはこれが由来です。
これだけならばよくある話かもしれませんが、山下清を有名にしたのはその後の人生です。

施設での生活に飽き足らず放浪の旅に

山下清「魚釣り」
(翠波画廊にて販売中)

18歳のとき、山下清は八幡学園を脱走します。
当時、日本は日中戦争のさなかにあり、18歳になった山下清は兵隊になるのが嫌で、徴兵検査の前に逃げ出したのだそうです。
これが山下清を有名にする放浪生活の始まりでした。
といっても、それほど遠くに行ったわけではありません。
八幡学園が千葉県にあったので、馬橋や我孫子など千葉県内を転々としていたのです。
生活費は、魚屋や弁当屋などに住み込みで雇ってもらって、なんとかまかなっていました。
2年半の放浪生活のあと、21歳になった山下清は、徴兵検査の年齢は終わったと考えて、1943年に東京に住む母の家に戻ります。
しかし、常識人であった母に無理矢理に検査に連れて行かれてしまいました。
結局、知的障がいを理由に不合格となって徴兵されることはなくなったものの、その後に清は八幡学園に戻されてしまいます。
八幡学園に戻った山下清は、旅の途中に見た風景を貼り絵で再現することに熱中し、また、経験したことを日記形式でつづりました。
実は、山下清は一度目にしたことを細部まで正確に覚えるといった、驚異的な映像記憶力を持っていたのです。
知的障がいと合わせて考えて、サヴァン症候群の一種ではなかったかとの説もあります。
これで終われば、山下清の名が後世まで残ることはなかったのでしょうが、この年のうちに清は再び八幡学園を脱走して放浪の旅に出てしまいます。
単調な学園での生活に耐えられなくなったのです。

朝日新聞が紙面を使って山下清を捜索

山下清「富田林の花火」
(翠波画廊にて販売中)

放浪生活は決して楽なものではありませんでした。
戦後、職業安定所の紹介でGHQの仕事についたこともありましたが、1日でクビになってしまったそうです。
チフスにかかったときには、どうしようもなくなって母の家に戻っています。
東京大空襲があったときにも心配して母を訪ねにいくなど、山下清は終生、母を慕い続けました。
しかし、母のほうは清の行動に手を焼くことがおおく、一度は精神病院に預けてしまったこともあります。
このとき山下清は2階の窓から飛び降りて脱走して、やっぱり母のもとに戻りました。
1949年には5年ぶりに八幡学園に戻って、絵を描いて過ごしましたが、半年もするとまたふらりと放浪の旅に出てしまいます。すでに行動範囲は日本全国に広がっていました。
こうしてほとんどの日々を放浪についやしていた山下清を一躍有名にしたのは、アメリカの雑誌「ライフ」の特派員が山下清の絵に目をつけて取材を希望したことでした。
占領した日本で見つけた知的障がいの天才画家というだけで面白そうな題材になるからでしょう。
しかし、八幡学園にあたっても山下清はいません。例によって放浪中だったのです。
そのことを知った朝日新聞が紙面で大々的に「山下清を見かけませんでしたか?」と捜索キャンペーンを展開したことで、全国にその名前と風貌が知れ渡りました。
そうして1954年、鹿児島にいた山下清が見つかり、ニュースになりました。
その年のうちに新聞で山下清の日記「放浪記」が連載され、1956年に東京の大丸百貨店で開かれた個展は、なんと80万人を集める大盛況となりました。
人気画家、山下清の誕生です。

人気が出すぎて放浪できなくなった

山下清フィーバーが起きたとき、彼は34歳でした。
仕事が殺到したため、弟の辰三がマネージャとして対応することになり、山下清も八幡学園にはいられなくなり、母と弟と一緒に東京に住むことになりました。
もはや放浪の旅には出られません。
有名人なのでどこに行ってもすぐに正体がばれてしまうからです。
1957年には、記録映画「はだかの天才画家、山下清」が全国公開されます。この年には全国50か所で「山下清展」が開催されました。
1958年には、山下清をモデルにした人情映画「裸の大将」が全国公開されます。この映画も大人気となりました。
以降の山下清は、人気画家として仕事がひっきりなしに舞い込み、海外にも取材に出かけるような生活を送りますが、1971年に49歳で脳出血のために亡くなります。
生涯独身で、母と弟家族と同居する生活でした。
その人生は、どこか映画「男はつらいよ」シリーズのフーテンの寅さんに重なるところもあります。
死後の1980年からテレビ放送が始まった「裸の大将放浪記」が大人気になったことを考えると、安定した生活やしがらみを捨てて旅に生きる不器用な男の姿には、日本人の琴線に訴えかける何かがあるのでしょう。

翠波画廊では、山下清の作品を取り扱っています。
ぜひご覧になってください。

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