ピカソの愛人10人の秘密!
画風の変化と女性関係の驚くべき関係とは?(後編)
2023年6月、フランソワーズ・ジローが101歳で亡くなったことがニュースになりました。
フランソワーズ・ジローは、今回紹介するピカソの愛人の一人です。
ピカソの4人の子どものうちの2人を産み、また自らピカソを振った唯一の愛人としても知られていました。
今年2023年はピカソ没後50年でもありますが、50年経ってもなおアート業界にこれだけの影響力を誇るピカソ、恐るべしです。
1~5人目のピカソの恋人について解説した前編はこちらです。
>>ピカソの愛人10人の秘密!画風の変化と女性関係の驚くべき関係とは?(前編)
6人目、新古典主義の時代のオルガ・コクロヴァ
Musée national Picasso-Paris
ピカソの最初の妻となったのは、ロシア人のオルガ・コクロヴァでした。
1917年、詩人のジャン・コクトーに誘われて、ロシア・バレー団の舞台美術の仕事をした36歳のピカソは、巡業に同行するなかで、踊り子の一人であった26歳のオルガに目をつけます。
しかし、ロシア貴族のお嬢様だったオルガは、それまでの相手のように簡単には手に入りませんでした。ピカソはオルガを射止めるために婚約し、2人は1918年にパリで結婚します。
貴族の娘オルガとの結婚は、ピカソに社会的地位をもたらしました。
オルガはピカソを上流階級の集まる世界に連れて行き、ピカソは社交界で富裕層とも付き合うようになります。
また、オルガはピカソの前衛絵画と実験にあまり興味を持たず、自分を描くのならわかりやすくきれいに描いてくれと注文をつけたそうです。
こうしてピカソはキュビスムから離れて、古典主義風の絵画に回帰します。この時代のピカソの作風を「新古典主義」と呼びます。
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7人目、シュルレアリスムの時代のマリー=テレーズ
1921年、オルガはピカソの長男パウロを出産します。
結婚後しばらくは家庭的な男を演じていたピカソですが、だんだんと退屈してきたのでしょうか、1927年になると新たな愛人を作ります。
17歳のマリー=テレーズ・ウォルターです。出会った当時、ピカソは45歳でした。
ピカソとマリー=テレーズの愛人関係は、オルガには秘密のまま何年も続けられました。
ピカソは、マリー=テレーズを芸術の霊感を与えてくれる女神として、何枚も絵を描いています。中でも有名なのが1932年の《夢》です。
この頃、ピカソは、「シュルレアリスム宣言」を発表したアンドレ・ブルトンの敬愛を受けて、シュルレアリスム運動への共感を見せていました。
すでに大家の地位を築いていたピカソは、この若者の運動に積極的に荷担こそしなかったものの、作品にはシュルレアリスムの影響が見られます。
《夢》は、眠るマリー=テレーズを描いたものです。鼻梁を挟んで二つに塗り分けられた顔は、左半分だけを見ると眠る横顔のように見えます。また、マリー=テレーズの丸みを帯びた右肩とドレスは、陰茎と包皮のようでもあります。
1935年、「夢」のモデルになったマリー=テレーズは、ピカソの娘であるマヤを生みます。これに先立って、マリー=テレーズの妊娠を知ったピカソの妻オルガは、息子のパウロを連れて家を出て行きました。とうとうピカソに愛想が尽きたのです。
しかし、ピカソとオルガは正式には離婚しませんでした。宗教上の理由とも、オルガが拒絶したとも、ピカソが財産分与を嫌がったとも言われています。
オルガは南フランスにあるピカソの別荘で暮らすことになり、ピカソはパリでの独身生活を楽しみ、週末だけマリー=テレーズとマヤの住む家に帰るようになります。
8人目、ゲルニカの時代のドラ・マール
たいていの人は50歳を超えれば落ち着くものですが、怪物ピカソは違いました。
マヤが生まれた翌年の1936年、54歳のピカソは新たな愛人を作ります。
シュールレアリストのサークルに出入りしていた28歳の写真家、ドラ・マールです。
ドラ・マールは、しばしばマリー=テレーズに嫉妬しました。ピカソのアトリエでマリー=テレーズと鉢合わせして、喧嘩になったこともあるそうです。ピカソもまた、そんな二人を止めることなくなすがままにしていたそうです。
嫉妬に狂うドラ・マールの姿を、ピカソは《泣く女》という作品に残しています。この作品はピカソの代表作で、油絵や版画を含めてさまざまなバージョンが作られました。
Tate Modern
ドラ・マールとマリー=テレーズの女の戦いを制したのは、ドラのほうでした。
ドラ・マールはその後、横幅が約8メートルの大作壁画《ゲルニカ》の制作過程を写真で記録するなど、公私ともにピカソのパートナーとして活躍します。
後年のドラは、冗談交じりで《ゲルニカ》はピカソと自分の共作だと語っていました。
9人目、円熟期のフランソワーズ・ジロー
Pablo Ruiz Pikasso net
ピカソの女性に対する情熱は、なおも止まりませんでした。
1943年、62歳のピカソは、画家志望の学生だった、当時22歳のフランソワーズ・ジローと知り合います。彼女はピカソの長男パウロよりも年下で、ピカソとは40歳の年齢差があったのですぐに恋愛関係には発展しませんでした。
しかしピカソはフランソワーズの知性に魅了され、フランソワーズもピカソの愛情に応えて、1946年から同棲が始まります。
フランソワーズは、1947年にピカソの息子クロード、1949年には娘パロマを生みます。 オルガの息子パウロとマリー=テレーズの娘マヤと合わせて、ピカソには合計4人の子供ができました。
とはいえ、正妻オルガの地位は揺らぎませんでした。ピカソはマヤを通じてマリー=テレーズとの関係も続け、ドラ・マールも手放しませんでした。
60代のピカソはいわゆるピカソらしさのあふれる円熟期の作品を量産しました。
当時描かれた《花の女》のモデルがフランソワーズ・ジローです。
10人目、晩年を看取ったジャクリーヌ・ロック
1953年、71歳のピカソは、26歳で離婚歴のあるジャクリーヌ・ロックに惚れて、口説き落とします。
それを知ったフランソワーズは、ピカソと別れる決心をし、パリに出て画家として自立の道を歩み始めます。
画家として成功後に、おそらく初めて女性のほうから愛想を尽かされたピカソは、激怒してフランソワーズの画家としてのキャリアを邪魔しようとします。
彼女が同世代の画家リュック・シモンと結婚してからは、復縁をもちかけて離婚させたのですが、1961年にフランソワーズがシモンと離婚した途端、ピカソはジャクリーヌと結婚してしまいました。よほどフランソワーズのことが許せなかったのでしょう。
ちなみに、前妻オルガは1955年に亡くなっていたので、ピカソは誰と結婚するのも自由でした。フランソワーズの存在がなければ、ジャクリーヌとの結婚もなかったかもしれません。
ジャクリーヌは、ピカソが1973年に亡くなるまで、公私ともにマネージャーとして献身的に尽くしました。結婚時に80歳になっていたピカソは、さすがに女遊びはできなくなったのか、晩年はおとなしくジャクリーヌに従っていました。
当時のピカソが熱中していたのは、古典作品をピカソ風に翻案して描きなおすことでした。そのうちの一つが《アルジェの女たち》です。
この作品は、アルジェリアのハーレム(後宮)を描いたドラクロワの同名作品を元にしていて、左側に描かれた女性はジャクリーヌをモデルにしています。
Christie’s 2015
ピカソ《アルジェの女たち(バージョンO)》は、2015年のニューヨーク・クリスティーズのオークションで、手数料込み約1億8000万ドル(約215億円)で落札され、当時の美術品の史上最高落札価格となりました。2023年現在もなお史上3位の記録です。
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