映画『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』と書籍『最後のダ・ヴィンチの真実』
~《サルヴァトール・ムンディ》の裏側
2021年11月26日から日本公開されている映画『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』(ギャガ)は、史上最高額で取引された絵画として有名な、ダ・ヴィンチ《サルヴァトール・ムンディ》(救世主)の謎に迫るドキュメンタリー作品です。
なにしろ《サルヴァトール・ムンディ》のオークションでの落札額は手数料込みで約510億円。
オークションで落札された絵画の次点はピカソ《アルジェの女たち(バージョンO)》で約215億円ですから、2倍以上の差をつけてのダントツ1位になります。
ところが、この作品は2017年の落札後、4年を経た現在まで一度も一般公開されておらず、所在地も所有者も詳細が不明となっています。
あれだけ話題になった絵画として非常に珍しいことです。いったいどのような理由があるのでしょうか?
オリジナルが未発見だった《サルヴァトール・ムンディ》
そもそも《サルヴァトール・ムンディ》とはどのような絵かといえば、ルネサンスの天才画家レオナルド・ダ・ヴィンチが、イエス・キリストの肖像を描いたものです。
ダ・ヴィンチの絵画は15点前後しか現存せず、成人したキリストを描いたものは《最後の晩餐》だけと思われていたので、《サルヴァトール・ムンディ》はモチーフの面でも貴重なものでした。
この絵は長らく存在が知られていませんでしたが、ダ・ヴィンチの弟子達による同モチーフの絵画が複数存在していたので、元になったオリジナルがあるはずだと考えられていました。
ジローラモ・アリブランディ(ダ・ヴィンチの弟子)
《サルヴァトール・ムンディ》
レオナルド・ダ・ヴィンチ工房(作者不詳)
《サルヴァトール・ムンディ》
ダ・ヴィンチの絵だと思われていなかった《サルヴァトール・ムンディ》
書籍『最後のダ・ヴィンチの真実 510億円の「傑作」に群がった欲望』(集英社インターナショナル)は、美術評論家ベン・ルイスが、謎に満ちた《サルヴァトール・ムンディ》の来歴を調査したノンフィクションです。
この本によれば、15~16世紀にダ・ヴィンチによって描かれた《サルヴァトール・ムンディ》のオリジナルは、フランスやイギリスの王家などの記録にそれらしき絵画が確認できるものの、いつしか所在不明となり、20世紀になって突然、美術収集家のフランシス・クック卿のコレクションに現れます。
クック卿にこの絵を売ったのは、ダ・ヴィンチの専門家であるイギリスの美術商ジョン・チャールズ・ロビンソンです。
ロビンソンは1900年のクリスティーズ・ロンドンのオークションでこの絵を見つけて、おそらくダ・ヴィンチの弟子の絵であろうと鑑定し、6ポンド6セントで落札すると、それをお得意様のクック卿に120ポンドで転売しました。
落札価格が非常に安いのは絵の経年劣化が激しかったからです。
クック卿の美術品コレクションはクック家に代々受け継がれましたが、売れない芸術家だった四代目の時代に、財政難からすべて売却されることになりました。
1958年のサザビーズ・ロンドンのオークションで、サルヴァトール・ムンディ》は、アメリカ人コレクターのウォーレン・クンツに、わずか45ポンド(約4万5000円)で落札されます。
この絵の評価が低かった最大の要因は、表面の損傷が激しかったことと、絵具が剥げた後に第三者による塗り直しがあって、元の絵のクオリティが失われていたことです。
クック・コレクションのカタログに残されていた
モノクロ写真(1913年)
クリーニングと修復を施された後の
《サルヴァトール・ムンディ》(2011年)
たった13万円で落札された《サルヴァトール・ムンディ》
《サルヴァトール・ムンディ》を所有していたクンツ夫妻は子供がいなかったため、その美術コレクションは、甥に受け継がれます。
2004年にその甥が亡くなったとき、遺産を相続した長男はコレクションをすべて処分することにしました。まずクリスティーズの担当者を呼んで目ぼしいものを引き取ってもらったのですが、《サルヴァトール・ムンディ》はそのリストから漏れました。クリスティーズの担当者にすら「この絵は価値がない」と思われていたのです。
510億円の「傑作」に群がった欲望』
長男は、コレクションの残りを地元ニューオーリンズのセント・チャールズ・ギャラリーに頼んでオークションで売り出しました。
2005年のこのオークションをオンライン・データベースで発見して、《サルヴァトール・ムンディ》を落札したのが、ニューヨークの美術商アレックス・パリッシュです。落札額は1175ドル(約13万円)。落札想定価格よりも低い金額でした。
パリッシュがこの絵を落札したのは、手や衣装の襞に優れた筆触が認められて、ルネサンス時代のものであると感じたからです。残念ながらその他の部分は加筆が激しく、競売会社も「レオナルド・ダ・ヴィンチ風の絵」として売り出していました。パリッシュは実物を見ることなく、電話での入札で《サルヴァトール・ムンディ》を手に入れました。
届いた実物を見たパリッシュも、当初は本物のダ・ヴィンチの絵であるとは考えなかったのですが、調べていくうちに「値打ちものかもしれない」と考え始めます。パリッシュは仲間の美術商とともに、絵の修復と来歴の調査を試みました。
まず、長年の汚れや後世の加筆と考えられる部分を丁寧に除去したところ、元の絵が浮かび上がってきました。残念ながら顔から正面にかけての損傷が激しかったものの、無傷の右手の描き方はまさしくダ・ヴィンチを彷彿とさせるものでした。
右手の親指は一度描き直した後があり、まるで2本あるかのように見えます。描き直しの後こそが、後の模写ではなくオリジナルであることの証だとされました。
汚れと上塗りを落とした《サルヴァトール・ムンディ》の写真は、日本版書籍の表紙に使われました。絵具が剥げた後が生々しく、大きな傷となっていることがわかります。この上に塗り直しが施してあり、元の絵が隠れてしまっていたのです。
ようやく買い手を見つけた《サルヴァトール・ムンディ》
失われていたオリジナルの《サルヴァトール・ムンディ》が見つかったというパリッシュたちの主張は、多くの懐疑の声に突き当たりました。
美術業界は、21世紀になって突然ダ・ヴィンチの新しい絵が見つかったなどという話をそう簡単には受け入れないのです。
たしかにその絵には見るべき点がありましたが、500年の間に失われた絵具と大きな傷跡を「補修」したために、はたしてレオナルド・ダ・ヴィンチの絵と言い切っていいものかどうか疑問視する人も絶えません。
クリーニングを行った修復家ダイアン・モデスティーニの手が多く入っているために、「レオナルデスティーニ」と呼ぶ人までいます。
絵の制作年代と筆触から、ダ・ヴィンチの工房で制作されたのは間違いがないとほとんどの人が認めていますが、どこまでダ・ヴィンチが関与したかの意見は分かれます。
そのため、2005年に絵を入手したパリッシュたちですが、売却するまでには8年の月日を要しました。
最終的にパリッシュたちは、現金6800万ドルと時価1200万ドルのピカソ《喫煙者》の現物の合計8000万ドルで、ロシアの大富豪ドミトリー・リボロフレフに《サルヴァトール・ムンディ》を売り渡します。
しかし、実際にリボロフレフが絵の代金として支払ったのは1億2750万ドルでした。リボロフレフの代理人であるスイスの美術商が4750万ドルを中抜きしていたのです。後からこれを知ったリボロフレフはその美術商を裁判所に訴えます。
訴訟は泥沼になり、嫌気がさしたリボロフレフが入手の4年後にクリスティーズのオークションに《サルヴァトール・ムンディ》を出品しました。
このオークションはリボロフレフの不満をかき消しました。落札額が4億5030万ドルと、購入金額の4倍近くに跳ね上がったからです。
クリスティーズは落札者の身元を伏せていますが、メディアではサウジアラビアの皇太子と報道されています。
そしてなぜかそれ以降、絵はおおやけの場所に姿を見せなくなりました。これだけの金額をかけたのであれば、国威発揚の道具として国立美術館に展示されてもいいはずですが、行方知れずになってしまったのです。
私たちがダ・ヴィンチのこの傑作に再び出会える日はいつ来るのでしょうか?
ダ・ヴィンチ最後の絵画、510億円!謎の購入者とは??
映画『ダ・ヴィンチは誰に微笑む』本予告(ギャガ公式チャンネル)
絵画オークション落札記録(2022年1月現在)
1. ダ・ヴィンチ≪サルヴァトール・ムンディ≫4億5030万ドル(2017年)
2. ピカソ≪アルジェの女たち(バージョンO)≫1億7940万ドル(2015年)
3. モディリアーニ≪横たわる裸婦≫1億7040万ドル(2015年)
4. モディリアーニ≪(左向きに)横たわる裸婦≫1億5720万ドル(2018年)
5. ベーコン≪ルシアン・フロイドの3つの習作≫1億4240万ドル(2013年)
6. 斉白石(チー・バイシ)≪山水十二屏≫1億4100万ドル(2017年)
7. ムンク≪叫び≫1億1990万ドル(2012年)
8. ピカソ≪花かごを持つ少女≫1億1500万ドル(2018年)
9. モネ≪積み藁≫1億1070万ドル(2019年)
10. バスキア≪無題≫1億1050万ドル(2017年)
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